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雲龍山本證寺(愛知県安城市野寺町) 三河三ヶ寺

2020年6月11日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名雲龍山本證寺
所在地愛知県安城市野寺町野寺二十六番地
御本尊阿弥陀如来
宗 派浄土真宗大谷派
創 建建永元年(1206年)頃
札 所
御朱印
H P

参拝日:2020年5月25日

由緒・沿革

 浄土真宗本願寺派の三河三ヶ寺(後年は三河七ヶ寺)の一つに名を連ねる本願寺派三河教団の中心の寺院の一つになります。
 創建は鎌倉時代の建永元年(1206年)頃と伝えられています。開基は「慶円法師」といいます。慶円法師は、最初は現在の西尾市の大郷山(醍醐山)に居宅を開創して草庵としていたが、新たな布教の本拠地を求めて天に矢を放ち、この矢が落ちた場所が現在の雲龍山本證寺の境内であると寺伝で伝えています。

 慶円法師は、「小山判官行長」の息子とも、下野国「小山下野守朝政」の次男「兼光」とも伝えられています。比叡山延暦寺に登り修行した後、全国を行脚し、大御山もしくは小嶋山に居を求めたと言います。

 慶円法師が野寺に寺院を建立した頃、浄土真宗を開宗した「親鸞聖人」が関東布教の帰路の途中、矢作宿に逗留しています。慶円法師は親鸞聖人の話を聞きに矢作宿まで出向いたのか解りませんが、この時に慶円和尚は親鸞聖人の門弟となったといいます。そして浄土真宗の寺院として「雲龍山本證寺」を開山しています。

 時は下り、浄土真宗八世宗主「蓮如上人」が三河の地に布教に訪れた時、佐々木の上宮寺、針崎の勝髪寺と共に浄土真宗高田派から本願寺派に改派しています。そして、浄土真宗本願寺派の三河教団の中心寺院として発展していくことになります。

 雲龍山本證寺が建つ(旧)碧海郡桜井町には寺院が十二ヶ寺建っていたそうですが、その内十一ヶ寺は浄土真宗本願寺派の寺院が占めています。これは雲龍山本證寺があった事と、本願寺派大檀那であった石川氏の居城があった事が両輪となり浄土真宗本願寺派が広まっていた結果であるといえます。

 室町時代の応仁の乱以降、西三河を中心に勢力を伸ばしたのは岩津城を本城とていた「松平家」でした。特に、三代「松平信光」の三男「松平親忠」が安祥城を居城として起こった「安祥松平家」は松平一門の中でも一番の勢力を誇る庶家として、岩津松平家が滅んだあと惣領的立場となっていきます。この安祥松平家は桜井周辺も所領に組み込んでいき、前述した本願寺派大檀那的立場だった石川氏も松平親忠に臣従し、安祥松平家の家臣の中に浄土真宗本願寺派が広く広がっていく事になります。

 浄土真宗本願寺派の三河教団は松平家に取り入れられる中で発展したとも言え、松平家としてもその勢力を無視する事は出来なかった為、三河教団に対し、寺内の不入権を与えています。これは三河教団の寺院の寺領には領主である松平家は手を出すことができないという事になります。この「寺内不入権」が三河一向一揆勃発に繋がるキーワードとなっていきます。

 松平家から寺内不入権を得るまで庇護を受けていた本願寺派三河教団は、本願寺派布教当初の上宮寺、勝髪寺、本證寺の三河三ヶ寺と呼ばれる本願寺派中心寺院が、長瀬願照寺、青野慈光寺、中之郷浄妙寺、平坂無量寿寺を加えた三河七ヶ寺と称されるまでその勢いを増していました。

 こうして各寺院を見ていくと、浄土真宗は岡崎城辺りから矢作川に沿って西尾方面に布教が広がっている事がわかりますね。実際、この地図で出ている辺りは、現在でも真宗本願寺派(現在は大谷派、本願寺派に分かれています。)の門徒(檀家)が非常に多い地域となっているのが特徴です。

三河一向一揆

 三河一向一揆の発端は、永禄五年説と永禄六年説があり、さらにその場所についても「本證寺発端説」と「上宮寺発端説」の二つの説が存在します。

 「松平記」には、「永禄五年、菅沼十郎定顕に命じて上宮寺の籾を兵糧として徴収したので、三ヶ寺(上宮寺、勝髪寺、本證寺)は協議し、菅原定顕の元を訪れ籾を取り返したという。菅原は酒井正親に届け、正親は使者を上宮寺に送るが使者が殺されてしまった為、検断を行った所これに反発して一揆が起こった。」としています。

 「三河物語」には、「永禄五年、西条城主「酒井正親」が雲龍山本證寺の寺内にいた無法者を取り押さえた所、不入権の侵害であるとして、永禄六年正月に本宗寺、上宮寺、勝髪寺、本證寺に門徒が立てこもり一揆が起こった。」としています。

 この上記の発端説に、永禄五年説と永禄六年説が存在している様です。しかし、永禄五年~永禄六年春頃にかけて家康が東三河に出兵していた為、永禄六年正月に一揆が起こったとすると東三河に出兵どころではなくなってしまう為、永禄五年ではなく、永禄六年の後半に三河一向一揆の発端があったのではないかと言われています。

 三河一向一揆が勃発すると、本證寺十世「空誓」が各本願寺派の寺院に向けて「激文」を送り、各地で徳川家康(一向一揆当時は松平家康)軍と武力衝突しています。しかし、加賀一向一揆や長嶋一向一揆などと違い、三河一向一揆には本来総指揮を取るべき本宗寺宗主が京都にいて不在であった事から、体系的な動きが取れず、最終的に一揆側に与した武士団により和議が結ばれ、一揆は解体されています。(本宗寺は、この武士団により寺内に家康軍が侵入され、この時破却されてしまっています。)

 家康と一向一揆側で和議が結ばれ一揆が解体された後に、家康側から改宗命令が発せられます。当然三河教団は拒否するのですが、一度解散してしまった一揆を再び起こすまでの勢いは教団側には無く、家康の領内における浄土真宗本願寺派は禁教とされ国外追放処分を受ける事になります。本證寺も加茂郡菅田輪に退去し、(当時加茂郡は三河国に在りながら織田信長が治める場所になります。)勝髪寺は信州井上に、上宮寺は尾張苅安賀に、本宗寺は松坂にそれぞれ退去しています。

 本證寺が三河に戻れるには約二十年の月日が必要であり、天正十一年(1583年)宗門再興の赦免状が発せられ、ようやく三河国内に本願寺派の寺院の再興が許可され、雲龍山本證寺も元の境内に復興される事になります。

歴史探訪

 ここ雲龍山本證寺は、平成二十七年、国の史跡として指定されました。元々は外堀、内堀を有していた城郭伽藍の寺院という事が決めてなのでしょうかね。全国にはこういった城郭の要素を併せ持った伽藍を有する寺院って他にどこがあるのでしょうか。

 境内には、平成二十七年以降に設置された雲龍山本證寺の案内板が設置されていました。境内図を見ても、まさに野寺の集落ほぼ全体が本證寺の境内だったことがわかりますね。外堀に囲まれた所に寺内町が広がっていたのでしょう。

 桜井町の色々な史跡を巡っていく中、一覧みたいな記事を書こうかなと思って勝手に「桜井町誌」を作成してみました。「綾姫伝説」についてもまとめていく予定ですので、是非ご覧ください。

 旧碧海郡桜井町のあった地域に国指定史跡が三カ所も存在しているという事がすごいですね。しかも、二カ所は古墳時代、そしてもう一ヶ所は戦国時代所縁の寺院ということで、時代も異なる国も認める史跡が点在している訳ですから、是非、時間がありましたら訪れてみて下さい。

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参拝記

 桜井から西尾市の間を走る県道294号線沿いに建つ「雲龍山本證寺」になります。城郭伽藍とも呼ばれるまるで城郭を彷彿とさせる堀とまるで隅櫓を彷彿とさせる真宗寺院独特の鼓楼が目を引く本證寺の外観となっています。

 三河一向一揆終結後、家康の改宗命令に従わなかった為国外追放となった際、一度廃寺となったはずなのですが、約二十年後の復興の際、堀跡などの伽藍はそのまま残っていたのでしょうか・・。普通なら一向一揆を主導した寺院なので、こういった堀などは埋め立ててしまいそうなのですが、この頃には、家康は大谷派を優遇して懐柔させていたのでもはや一揆を起こす恐れはないとの判断があったのでしょうか。何にしても、一向一揆で使用された城郭伽藍がそのまま現代に残っている事はすごいことなんじゃないのかな?と思う訳です。

境内入口

 まさに城郭と言った感じで、堀が切れたところに山門あり、その前にかなり立派な寺号標が据えられています。この山門の所が虎口になっていたらまさに城郭ですね。

山門

 袖壁のある四脚門の山門になります。四脚門なんですが、内柱が建てられていて門の回航は狭められた造りになっています。
 その山門の前には、正面に「雲龍山本證寺」右面には「三河三ヶ寺野寺本坊」左面には「親鸞聖人、蓮如上人御舊跡」と彫られた寺号標が据えられています。

本堂

 

 入母屋造瓦葺平入の向拝と高覧のある濡れ縁が設けられた本堂になります。寛文三年(1663年)に再建されたそうで、高覧に設けられている擬宝珠には寄進者の名前が彫られているそうです。

 この角度から本堂を望むと、間口だけでなく奥行きもかなりあり、大規模な本堂であることがわかりますね。

鼓楼

 浄土真宗特有の建物である重層造りの鼓楼になります。本證寺の鼓楼を特に際立たさせせているのは、城郭の隅櫓の様な場所に設けられていてさらに堀と石垣が組み合わさっているこの外観ではないでしょうか。
 鼓楼は真宗寺院特有というだけあって、浄土真宗の寺院を回ると見かける事があるのですが、写真の様な位置にある鼓楼は他には見たことが無いですからねえ。

 この造りからまるで三河一向一揆の頃から建っていた雰囲気がありますが、実は宝暦十年(1760年)という、なんと江戸時代の建立になります。

鐘楼

 元禄十六年(1703年)に建立された脇柱を有する鐘楼になります。この脇柱を有する鐘楼はほぼ大寺院でしか見かける事のない造りでして、本證寺も大寺院だという事ができるのかなと思います。

経蔵

 文政六年(1823年)建立の経典などを収納するために耐火性を高めた宝形造の屋根の経蔵になります。

裏門

 庫裏に通じる袖壁と通用口が設けられた薬医門の裏門になります。裏門の先に見える入母屋造妻入りの建物が庫裏になります。

本證寺の境内全体が国指定史跡となっていて、個別に「本堂」が県の指定文化財、「鼓楼」「鐘楼」「経蔵」「裏門」「庫裏」が安城市の指定文化財となっています。

地図で所在地を確認

寺院名雲龍山本證寺
所在地愛知県安城市野寺町野寺二十六番地
最寄駅あんくるバス2号桜井線「野寺本證寺前バス停」徒歩1分

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