三河観音三十三ヶ所 西尾市 西条吉良観音三十四ヶ所

仏寿山 法厳尼寺(西尾市寄近町) 三河三十三観音 三十二番札所

2019年1月23日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名 仏寿山 法厳尼寺
所在地 愛知県西尾市寄近町堂本二十三番地
御本尊 阿弥陀如来
宗 派 浄土宗鎮西派
創 建 不詳
札 所 三河観音霊場 三十二番札所
西条吉良観音 二十四番札所
御朱印
H P

参拝日:2019年1月22日

沿革・由緒

創建年月詳かならず。宝暦十一年中興の開基を明静沙彌尼という。後明和二年に至り、西尾領越前国より法厳尼を請じてこの寺第一世となせり。寺号は之より起これりという。本尊は阿弥陀如来木坐像にして慈覚大師の作なりと傳う。本堂は寛政十年九月の再建にして他庫裏、玄関、食堂、客寮、大衆寮、厠などを有す。
境内には観音堂、鎮守堂あり。観音堂の本尊は十一面千手観世音菩薩木立像にしてその由来は元禄九年大佛師法橋康慶勅を奉じて彫刻させものにして明正天皇三十七日御忌日佛なりという。
鎮守堂の本尊は秋葉三尺坊立像なるも由緒詳ならず。

「幡豆郡西尾町誌」より

矢作川紀行

丁田町の神明社を後にして、県道310号線を矢作古川方面に向かいます。「古川橋西」交差点の手前に「仏寿山 法厳尼寺」が鎮座しています。

矢作古川方面から向かうと右手に法厳尼寺が鎮座しているのがわかりやすいのですが、丁田町の方から向かうと住宅と塀で分りにくくなっているので注意してください。


矢作川紀行part5はこちらから

法厳寺所在地

参拝記

長期の地図を見て頂くとわかりますが、矢作古川のすぐ近くに鎮座する寺院になります。県道310号線をそのまま東に進むと西尾市大和田町の鎮守社「白山神社」が鎮座しています。


境内全景

山門は東入りになり、本殿は南向きの伽藍配置になっています。法厳寺の駐車場は山門の反対側に結構広めに用意されています。

山門

袖壁が設けられた四脚門の山門になります。
非常に雰囲気のある門構えかなと思います。

山門から境内を望みます。

正面に見えるのは、由緒で秋葉山三尺坊が安置されていると書かれている鎮守社になります。
本堂、観音堂は、参道の右側に南向きに並んで建っています。

手水舎・水盤

瓦葺木造四本柱タイプの手水舎になります。
ここ法厳寺の水盤は、丸い臼の様な形状の水盤ですね。こういった水盤の形状を何と呼ぶのでしょうか。

水盤に目が行ってしまい、中々気付きに憎いですが、ここの手水社はほぼ正方形の形になっています。柱が細く、それでいて軒が高い為か倒壊防止用の鉄製の支えが設けられています。

本堂

本尊である阿弥陀如来像が安置されている寄棟造瓦葺妻入りの向拝の設けられた本堂になります。
浄土宗の本堂らしく廻縁が設けられています。

観音堂

宝形造瓦葺の観音堂になります。
十一面聖観世音菩薩立像が安置されており、三河三十三観音、西条吉良観音の札所にもなっています。

十一面観世音菩薩は秘仏なのかな?厨子が閉じられていているので、もしかしたら前立仏だと思われます。

鎮守堂

扉が閉じられて、参拝した時にはこれが何かわからなかったのですが、由緒を調べていると鎮守堂の様です、
秋葉山三尺坊が安置されているそうで、火伏せの願いが込められているんでしょう。

役行者堂

法厳寺の駐車場の脇に役行者像が安置された御堂がありました。

個人的な感想ですが、弘法大師に次いで宗派問わず石像が安置されている方な気がします。注意深く見て聞くと、結構な確率で役行者像を発見できると思います。

荒川義広と家臣中神氏墓石

法厳寺の庫裏の前に、荒川義広とその家臣であった中神氏の墓石が安置されています。

この法厳寺の地は、元々は荒川城主荒川氏に仕えていた中神氏の屋敷「寄近屋敷」があった場所だと言われています。
荒川城は現在の八ツ面小学校周辺にあった城郭とであり、荒川氏が代々城主と務めてきています。
足利尊氏が饗庭、小山田、友国と呼ばれる地区の新田開発を命じたのが荒川城に滞在していた時だといわれていますので、鎌倉末期にはすでに存在していたことがわかります。


この法厳寺に墓石がある「荒川義広」は、東条城主吉良持広の次男でしたが、分家し荒川城を納めるようになり、荒川義広と称したとされています。足利尊氏に仕えていた荒川氏とは遠い血族ですがほぼ繋がりは無かったと言われており、前期荒川氏、後期荒川氏と分けることができるんだとか。で、荒川義広は後期荒川氏となり、その名が歴史に出てくるのは松平氏と吉良氏との戦いの前後になります。

当然、荒川氏は元は吉良氏の出という事もあり、当初は吉良方で松平氏と対立していましたが、鎧ヶ淵、善明堤の戦い後、突然松平氏側に付き、荒川城に松平軍を引き入れます。これを切っ掛けに西条城が落城、吉良氏滅亡の原因となります。これで松平側についていれば荒川氏も安泰だったのかもしれませんが、その後起きた三河一向一揆でなぜか今度は松平氏に反旗を翻し、一揆勢に加担し、松平氏と敵対します。
ご存知の通り一向一揆は鎮圧され、荒川氏は荒川城を追放され、家臣であった中神氏の寄近屋敷で蟄居処分となたと言われており、永禄八年に病死したといわれます。

この荒川義広氏の墓地は、法厳寺の他に、熊味町の真成寺、上道目記町の不退院にあるとされ、様々な死亡説もあり謎深い武将になります。

参拝を終えて

当ブログで企画「歴史探訪」で取り上げてきた松平氏vs吉良氏の戦いの中でキーマンとなった荒川義広の墓がこの法厳寺にあるとはまったくおもっておらず、こういった繋がりに出会えるのは楽しいですね。

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