2019年2月、サイト名を「神社のある生活って」から「あいちを巡る生活って」に変更致しました。

三河鐵道と(旧)三河新四国霊場

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三河新四国霊場の歴史を考える。

三河新四国霊場は当ブログの記事の中にも、寛永二年(1626年)に西加茂郷の浦野上人が開創したと伝えられているという事を記載させて頂いていますし、色々な方のホームページなどを拝見させて頂いても同様な事が書かれています。

しかし、今自分の手元にある三河新四国霊場の納経帳を見てみると、ある事に気付きます。

初版が昭和二年に発刊され、更に昭和四十一年に印刷やら発行と書かれていて、この時に昭和二年の初版から手が加えられた事がわかります。昭和三十九年(1964年)にそれまでの札所を大幅に刷新し再興させたのが現在の「三河新四国霊場」になります。

 この再興の際、八十八ヶ所の寺院を選ぶのではなく、大半の寺院において2ヶ所の札所を兼任させることになります。それまでの三河新四国霊場の実情を見ていると、廃寺、合併などで札所を維持できなくなってしまう寺院が出てしまいそれに伴い霊場も衰退してしまった為、これを避ける為に、ある程度経営基盤?がしっかりしている寺院を札所に選定したということなのですが。

再興したのが昭和三十九年で、納経帳が作り直されたのが昭和四十一年と二年ほどのタイムラグが生じていますね。
最初は、今まで壊滅に近い状態だった霊場だったので、納経帳までいらないと判断していたら、思いのほか遍路される方が多く二年たって納経帳を用意したのか、ただ単に納経帳の準備が間に合わなかったのか、このあたりのいきさつは想像の世界になってしまいます。
そこからは定期的に再版されているようで、知多四国霊場まではいかずとも、愛知県下における弘法霊場としては全国的にも知名度が上がってきている様です。

昭和二年初版の持つ意味とは。

三河新四国霊場の納経帳が昭和二年に初版として印刷された意味を考えていくと、三河新四国霊場がどういった歴史をたどってきたのかが見えてきそうな気がします。そこで、一つの手がかりとなりそうな物が、

豊田市四郷町にある十九番、二十番札所「水月山 雲龍寺」の本堂の中に掲げられた直傳證になります。

本四国七十五番札所にもなっており、当時本四国霊場の会長でもあった「善通寺誕生院」の貫主から、三河新四国八十八ヶ所霊場七十六番札所として雲龍寺に弘法大師像一体を新四国霊場の本尊として直伝するという事が書かれていますね。(という事は、「水月山 雲龍寺」が当時の三河新四国霊場の中心だったのでしょうか?)

ここで特に重要なのが、この直傳證を昭和二年十月廿一日に拝受しているという事です。
この直傳證を頂くのを待っていたかのように、納経帳の初版が昭和二年十月廿七日に印刷されています。

同じく直傳證を拝受して新四国霊場を開創した所が愛知県にあります。

愛知県知多半島を霊場とする「四国直伝弘法」という大師霊場が、「善通寺誕生院」の貫主から弘法大師像と共に直傳證を拝受しています。公式ホームページによると、「善通寺誕生院」の貫主から弘法大師像と共に直傳證を拝受したのが大正十四年十月七日。そして、この直傳證を拝受した日「大正十四年十月七日」を「四国直伝弘法霊場」の開創日に定めています。(2019年現在、四国直伝弘法開創94年ですね。2025年は開創100周年を迎えます。何か記念のイベントとか行われるかもしれませんね。)

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「四国直伝弘法」の例だけでは断言することは厳しいのはわかっていますが、直傳證を拝受したのが前述の通り「昭和二年十月廿一日」となると、「三河新四国霊場」の開創日は「昭和二年十月廿一日」であると考えられるのではないか。ということなんです。

そうなると、冒頭で述べています「寛永二年(1626年)に西加茂郷の浦野上人が開創した」とはどういうことなのか。
現代の様に印刷技術もなかった時代において、霊場の存在や札所などの寺院の場所についての情報の共有は、その霊場を遍路される方々の口伝によるものが大きかったと思います。しかし、お遍路さんが減ってくると口伝も徐々に途切れていき、最終的には衰退、荒廃してしまう。日本全国にはそんな廃れ忘れ去れてしまった大師霊場や観音霊場などが数えきれないくらい存在するとも言われています。
資料がないのであくまでも憶測になってしまうのですが、この寛永二年に開創されたという三河新四国霊場は昭和二年の時点では既に弘法大師霊場としての体を成していなかったのでないでしょうか。それを、昭和二年にある理由で再興させたのが(旧)三河新四国霊場になると思います。

 色々な資料を探しても、札所一覧として散見できるのは昭和二年開創された(旧)三河新四国霊場の札所のみであり、寛永二年~昭和元年までの札所については資料が見当たりません。実際、昭和二年時点の札所も現在ではかなりの数が廃寺になってしまっています。
そもそも、1600年代に他宗派で弘法大師像を奉安することは考えにくく、真言宗の寺院のみで構成された新四国霊場だったはずです。しかし、中興開山として真言宗から他宗派に改宗する寺院が自分が参拝してきた寺院でも結構遭遇しているので、新四国霊場を構成した札所の寺院でも改宗して新四国霊場から抜けたところも多かったのではないでしょうか。

ある理由とは?

先日、まだ当ブログでは参拝記をこの記事を書いている時点(2019.5.27現在)では書いていないのですが、碧南市にある八十一番、八十二番札所「南面山 海徳寺」を参拝した時に、気になる物を発見しました。

それがこちら・・・

まあ普通に見れば何の変哲もない札所案内石柱なんですが。第三十八番札所とは(旧)三河新四国霊場での札所番号になります。(参拝記事でも何度か述べてはいるのですが、昭和三十九年に再興された「三河新四国霊場」の札所案内石柱はほとんど存在しません。一部、境内を造営した時や石柱門を新造した時に石柱をもけている所があるくらいです。)

で、この石柱の何がすごいのか。

ちょっと拡大してみました。

三鐵沿線新四国」と彫られていますね。
正直、この石柱を見た瞬間、自分の中になんとなく抱いていた(旧)三河新四国霊場の疑問があっという間に解消された感じがしました。

三鐵とは・・現在の名古屋鉄道の三河線、蒲郡線を敷設した「三河鐵道株式会社」の事。

三河鐵道株式会社とは

明治43年(1910年)、大浜港ー高浜ー刈谷ー知立を結ぶ「碧海軽便鉄道」の敷設申請が行われ、1911年7月に免許が下付されます。また、ほぼ同時期に申請、免許下付された知立ー挙母間を結ぶ「知挙軽便鉄道」と発起人の一部が重複していたのも影響したのか、合併する事となり、「三河鐵道株式会社」が誕生します。

大正3年(1914年)に、刈谷新駅ー大浜港間が、大正4年(1915年)刈谷新駅ー知立間が開通し、碧海軽便鉄道の申請区間が開業します。
その後、
・大正9年(1920年)7月、知立駅ー土橋駅間開業
・大正9年(1920年)8月、土橋駅ー上挙母駅間開業
・大正9年(1920年)11月、上挙母駅ー挙母駅(現豊田市駅)開業
最初の開業から6年後にようやく知挙軽便鉄道の申請区間が全線開業します。

この延伸の最中、大正3年(1914年)9月、挙母駅ー越戸駅間の敷設免許が下付されています。まだ挙母駅まで鉄道が敷設できていないのに更に川上の越戸駅まで延伸を決定、さらには、大正9年12月には大浜港駅ー蒲郡駅間、続いて大正10年(1921年)11月には越戸駅ー足助駅間の敷設免許が下付されています。

正直な所、どういった経緯で大浜港駅ー挙母駅からそれぞれ蒲郡、足助まで延伸を決めたのかは、現代の感覚からは解りにくい所ですが、当時は貨物輸送が主たる運用だったようで、元々は三州瓦の輸送の為に鉄道敷設を始めたのが徐々に地元の要望に応えていく内に範囲が広がっていったんでしょうね。

・大正11年(1922年)1月、越戸駅まで延伸
・大正13年(1924年)10月、猿投駅まで延伸
・大正15年(1926年)9月、神谷駅(後の松木島駅)まで延伸
・昭和2年(1927年)8月、枝下駅まで延伸
・昭和2年(1927年)9月、三河広瀬駅まで延伸
・昭和3年(1928年)1月、西中金駅まで延伸
・昭和3年(1928年)8月、三河吉田まで延伸
・昭和11年(1936年)7月、蒲郡駅まで延伸
※ 西中金駅ー足助間は計画のみで着工せず。

昭和16年に名古屋鉄道が三河鉄道を吸収合併し、三河鉄道株式会社は消滅。三河鉄道沿線は三河線と改称します。

ずっと(旧)三河新四国霊場の札所一覧を見ていて、なんでこんな札所の位置関係なのか疑問だったんですよね。
一番札所が蒲郡市にある「松全山 薬証寺」で、蒲郡ー(旧)幡豆町ー(旧)吉良町ー(旧一色町)ー西尾市ー碧南市ー高浜市ー刈谷市ー知立市ー豊田市と札所が所在地が続き、八十八番札所が(旧)足助町香嵐渓にある「飯盛山 香積寺」に通じる霊場になっています。鋭い方ならこの位置関係を見た時にこれは!って思われる方もいらっしゃるのかもしれませんが、自分は、三河新四国という割には、岡崎市や東三河に札所がないって不思議だなぁ~って思ってたくらいだったんです。

それが、前述したとおり、碧南市にある「南面山 海徳寺」の札所案内石柱を見て、三河線沿線と(旧)三河新四国霊場の札所の位置関係が見事に一致することに気付かされました。
大正10年の時点で、足助駅ー蒲郡駅までそれぞれ延伸することが決定されていた三河鉄道は、貨物輸送だけでなく、乗客の確保の為、沿線の観光化も推し進めていたはずです。その中の一つに「三河新四国霊場」の開創があったはずです。それを裏付ける様に、

なお、当山は、昭和初期に開業した名鉄三河線沿線(※合併前の為、開業時は三河鉄道沿線)の弘法大師八十八ヵ所の霊場のひとつでした[越戸駅より徒歩五分に立地]。

十三番、十四番札所「身掛山 観音院」HPより

三河新四国霊場十三番、十四番札所の「身掛山 観音院」の真言宗醍醐派の寺院紹介ページには上記のようなことが記載されていました。

日本全国に数多くの鉄道会社が生まれ、今の様に車で自由に日本全国気軽に行ける時代じゃなかったからこそ、それぞれの鉄道会社が様々な観光事業を展開してきたはずです。大正から昭和初期にかけて日本全国で写し四国霊場(新四国霊場)の開創ブームがあったそうです。三河新四国霊場の開創を支援し、三河鉄道沿線に札所を置くように依頼したのか、三河鉄道が新四国霊場開創を企画したのかは不明ですが、なんにせよ、(旧)三河新四国霊場と三河鉄道は非常に緊密な関係だったことがわかりまいた。
実はこれによく似た話がありまして・・・

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愛知電気鉄道と四国直伝弘法

大正十四年(1925年)に知多半島全域を霊場とする「四国直伝弘法」が開創されたことは前述しました。この「四国直伝弘法」を強力に支援していたのが、名古屋鉄道の前身となる会社にあたる「愛知電気鉄道株式会社」なんだそうです。

「愛知電気鉄道株式会社」とは

神宮前駅を基点に、常滑駅までの常滑線、豊橋までの豊橋線を有し、業務受託路線として現在の河和線、西尾線を有していた鉄道会社になります。昭和10年、名古屋から岐阜にかけて鉄道運行を行っていた名妓鉄道と合併し、名古屋鉄道となり、愛知電気鉄道は解散していますが、名古屋鉄道の二代主派であることは間違いない所です。

それを裏付けるかのように、四国直伝弘法の一番札所は鳴海駅近くにある「龍蟠山 瑞泉寺」であったり、八十八番札所が太田川駅近くにある「玉應山 龍雲院」となっていたりしています。
知多郡でもない鳴海に札所を設けたり、常滑線と河和線の分岐駅である太田川駅近くに結願となる八十八番札所を設けたり、要所要所に愛知電気鉄道の思惑が見え隠れする霊場となっています。

(旧)三河新四国霊場の結末

(旧)三河新四国霊場と三河鉄道は切っても切れない関係だという事は解っていただけたと思います。しかし、その三河鉄道が経営難により一時期、愛知電気鉄道との合併協議(最終的に破談)を行ったりと先行きが不透明になり初め、最終的に昭和十六年に名古屋鉄道に吸収される形で消滅してしまいます。さらにこの頃から戦時色が強くなり始め、国民全体が正直な所お遍路さんどころではなかったのではないでしょうか。その間にも廃寺になってしまった札所も出てきてしまい、結局、戦後も(旧)三河新四国霊場にお遍路さんが戻ってくる事もあまりなかったのではないでしょうか。

そして、昭和三十九年、どういった人たちが札所の選定をしたのかは不明ですが、(旧)三河新四国霊場では札所がまったくなかった岡崎市、豊川市にも札所が置かれるようになった(新)三河新四国霊場が開創されます。あまりにも札所が変わってしまっている為、正直再興というより新たに開創したといった方がしっくりくる感じがするのですが。
そして・・・、見事なぐらいに名古屋鉄道の沿線沿いに札所があったりします。名古屋本線、豊川線、蒲郡線、三河線(海側)、三河線(山側)・・・
再興時に名古屋鉄道のご意向を忖度したのでは?と思ってしまうほどの沿線ぶりです。

ちなみに、四国直伝弘法も愛知電気鉄道が名古屋鉄道となり消滅して支援がなくなってしまった為なのか、こちらも急速に霊場としての勢いが落ちていき、戦後は忘れ去られてしまったそうですが、昭和五十年代に入り、豊田自動織機大府工場の社員サークルが戦前にあった四国直伝弘法を手作りの納経帳で遍路するようになり、美浜町の安養寺が中心になり再興の機運が高まり、廃寺となった札所を入れかえ、平成十五年に新たに納経帳を発行し再興しています。ただし、知多半島には三大新四国霊場にも名を連ねる「知多四国霊場」があり、遍路される方も知多四国霊場が年間二万人以上と言われている中、四国直伝弘法は三百人程度となっています。時代は変われど、鉄道会社の支援がないと霊場の隆盛は厳しいということなんでしょうか

(旧)三河新四国霊場札所一覧

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投稿者プロフィール

成瀬晃ドクターレザーおかざき 店主
愛知県岡崎市で「かばん・くつ✚革の病院ドクターレザーおかざき」を営んでいる成瀬と申します。
史跡、神社などを巡った事をなどをつぶやきつつ、お店のブログではつぶやけないような事も書いていこうかと思っています。

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