名所旧跡など

竹ノ谷松平四代の五輪塔

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

塩津中学校の脇にひっそりと建っている竹谷松平氏、初代~四代までの五輪塔になります。
五代目以降は、龍台山天桂院に安置されています。

竹谷松平氏とは?
松平宗家三代目"松平信光"の長男が竹谷に領地を持つようになり、竹谷松平氏と呼ばれるようになります。その後、松平宗家が今川氏に従属するのに伴い、竹谷松平氏も今川に従属しています。松平元康が桶狭間の合戦後今川氏から独立をすると、当時の竹谷松平氏の当主"松平清善"も追随し今川家を離反します。
この時、今川氏真は吉田城外龍拈寺にて松平側からの人質十三名を串刺しの刑にて殺しています。その中には松平清善の娘も入っています。
竹谷松平氏5代目"松平清宗"の時に関東移封となり、竹谷を離れ武蔵国八幡山に移っています。その後、徳川幕府となり、三河国吉田藩三万石の大名となりますが、7代目"松平忠清"が若くして死去し、無嗣除封となってしまいます。しかし、功績が大きい竹谷松平氏を存続させる為に、幕府は忠清の異母弟である"松平清昌"に家督を継がせています。この時、改めて宝飯郡西ノ郷五千石の領地を与え、交代寄合となり幕末まで存続しています。

四基の五輪塔の中央に建つ石碑。
右側から初代、二代目、三代目、四代目の戒名が彫られています。
この石碑から想像するに、彫られている順に五輪塔が安置されていると思われます。

四代目、松平清善 と 三代目、松平親善 と思われる五輪塔

二代目、松平守親 と 初代、松平守家 のと思われる五輪塔


天佳院に安置されている墓石と比べると非常に質素な感じですね。

現地に据えられていた案内板になります。

昭和三十二年に蒲郡市の有形文化財に指定されている様です。

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