龍田山 長泉寺(蒲郡市五井町) 五井松平氏・安達盛長墓所

寺院情報

寺院名龍田山長泉寺
所在地愛知県蒲郡市五井町岡海道七十六番地
御本尊薬師如来
宗 派曹洞宗
創 建文明十七年(1485年)
札 所三河七御堂
御朱印
H P

参拝日:2018年8月18日

由緒・沿革

 「長泉寺」がある蒲郡市五井町の地名の由来は、神亀年間(724-729年)、全国行脚をしていた「行基大師」がこの地を通りかかります。住民から「この地に井戸が無く日々水が不足している困窮している」という話を聞き、行基大師は大変気の毒に思い、大師はおもむろに杖を突き立てるとそこから清水が湧き出てきました。他四カ所も同じように杖を突き立てた場所から清水が湧き出てきて、合計五カ所の井戸を掘ったと言われており、これが「五井」と呼ばれる所以になります。

 全国行脚をした伝説の僧侶といえば「行基大師」と「弘法大師」が特に有名でしょうか。様々な伝説が伝えれられる両大師ですが、特に水不足に悩んでいる地域で井戸を降り起すという「井戸伝説」は全国各地にみる事ができます。
 修験道や全国行脚の中で、現代の地形学に通じる様な地下水脈などを見極めるという何らかの知識、感覚などを得たんでしょうね。

 行基大師は、「郷中に観音様をまつり信心するのがよい。そうすれば井戸の水は枯れることはない。」と、この地に庵を設けて旅立って行かれたそうだ。この観音様が長泉寺の御本尊だという伝説が残っています。

 平安末期の源平合戦を壇ノ浦の戦いで制し、鎌倉幕府を開幕した「源頼朝」は全国に守護・地頭を命じていきます。(そういえば、鎌倉幕府の設立が1192年と学校で習ってきましたが、最近では1185年が鎌倉幕府の開幕した年になっているそうですね。)源義経を追い詰める為に朝廷に設置を認めさせたという「守護・地頭」ですので、全国一斉に守護職を任命しているわけではない様で、順次守護職を任命しているようです。
 初代三河国守護代は建久二年(1191年)に「安達藤九郎盛長」が命ぜられます。非常に猜疑心が強く兄弟の範頼、義経とも最終的には敵対してしまう源頼朝だったのですが、安達盛長は源頼朝の信頼が非常に厚く、頼朝は何度も安達盛長の私邸を尋ねていたという史料が残っています。
 鎌倉幕府はとても神仏を大切にしていました。鎌倉幕府開幕時には明文化された成文法が存在しておらず、承久の乱以降朝廷の力を抑制し全国的に武士による統治が行われていく中、武家社会の慣習や道徳などを元に「御成敗式目」が作られます。全五十一条で作られる法令で、その第一条、第二条は神社、寺院に関する事が定められています。

第一条

一、可修理神社專祭祀事

右神者依人之敬增威、人者依神之德添運、然則恆例之祭祀不致陵夷、如在之禮奠莫令怠慢、因茲於關東御分國々并庄園者、地頭神主等各存其趣、可致精誠也、兼 又至有封社者、任代々符、小破之時且加修理、若及大破、言上子細、隨于其左右可有其沙汰矣

一、神社を修理し、祭祀を専らにすべき事

 神は人の敬いによって威勢を増し、人は神の徳によって運を得る。その為に、慣習の祭祀をおろそかにする事無く、常に祭祀、神饌は怠る事なかれ。関東の国々、荘園においては、地頭、神主はこの意味をよく理解し心から祭祀を行うべきである。大社には太政官に任せ、地頭が管理する神社については、小破の時は都度修理し、大破に至った時は、状況を細かく申し出て、その沙汰を待て。

第二条

一、可修造寺塔勤行佛事等事

右寺社雖異崇敬是同、仍修造之功、恆例之勤宜准先條、莫招後勘、但恣貪寺用、於不勤其役輩者、早可令改易彼職矣

一、寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事

 寺院は異なると言えども、崇敬は神社と同じである。伽藍の修理、常の務めなどは先条と同じ用意行い、後日咎めを招かないようにするように。ただし、寺院の物を私用に流用するような僧侶については、早急に改易させるように。

 第一条、第二条に神社、寺院の事を持ってくるという事は、「鎌倉幕府として国の根幹は神社の祭祀、寺院の務めをしっかりと行う事である」という事を宣言している事だと思います。
 神仏を大切にするという鎌倉幕府の流れは開幕当初からのものであり、三河守護職となった「安達藤九郎盛長」も三河国内の寺院を整備していきます。今回参拝する「長泉寺」を含む七ヶ寺を再建整備を行っています。この七ヶ寺は「三河七御堂」と呼ばれています。残念ながら、安達盛長が再建した当時の建物は西尾市にある「青龍山金蓮寺/紹介記事」だけになっており、それ以外はその後再建された寺院か廃寺(一ヶ寺)となってしまっています。

三河七御堂とは


赤岩寺:豊橋市多米町赤岩山
普門寺:豊橋市雲谷町ナベ山下
財賀寺:豊川市財賀町観音山
全福寺(廃寺):蒲郡市相楽町
鳳来寺:新城市門谷字鳳来寺
長泉寺:蒲郡市五井町岡海道
金蓮寺:西尾市吉良町饗庭

 長泉寺は、安達盛長の再建時に、中興開山として「天台宗」に改宗しています。

 「安達盛長」が三河守護職に任ぜられると同じころ、「長泉寺」の近くに「源行家」が屋敷を築いたと伝えられています。行家は、源義仲、頼朝が挙兵する前に平家に対して行われた「以仁王の挙兵」を各地の源氏に伝え歩いた武将になります。一時は三河国に勢力を築いたと言われている「源行家」ですが、平家討伐後、やっぱり源頼朝と不仲になり、最終的には謀反を疑われ殺されてしまいます。五井の地に作られた屋敷はその後「五井城」とも呼ばれ、行家の身内が住んでいたと言われていますが、今となっては真偽はわかりません。一説には、五井城には「上ノ郷城/紹介記事」城主「鵜殿氏」の一族が入城していたとも伝わっています。
 文明十七年(1485年)頃、岩津城を本城とする松平家三代「松平信光」七男「松平忠景」がこの地に攻め落とし「五井城」に入城しています。ここ「五井松平家」が起こります。その二代目である松平長勝が長泉寺を曹洞宗に改宗、寺号を「長泉寺」と改称させ、五井松平家の菩提寺としています。

本尊薬師如来は行基菩薩の作にして安養院と号し天台宗なり。往昔安達藤九郎盛長本国に於いて七堂を建立す。其一なりと云(三河守範頼はこの国を領して三十五万石とあり。範頼、藤九郎盛長を奉行として七御堂を建立せしには非ずや云々)永正六年正月、大檀越本村城主松平太郎左衛門尉長勝伽藍を再興し曹洞宗に改め、長泉寺と称す。この寺の戌亥の方に五輪の塔あり安藤藤九郎盛長の石碑と伝えり而て寺領三石。

宝飯郡誌より

歴史探訪

 幸田町深溝にある「瑞雲山本光寺/紹介記事」は「深溝松平家」の菩提寺であると紹介してきました。この深溝松平家は「五井松平家」の分家であることはあまり知られていないかと思います。今回は、その五井松平家の菩提寺である「龍田山長泉寺」を参拝していきたいと思います。この長泉寺は由緒でも書きましたが、五井松平家だけでなく、鎌倉幕府初期の有力御家人「安達盛長」が深く関わっている寺院になります。

五井松平家

八幡宮・五井城/紹介記事

深溝松平家

瑞雲山本光寺/紹介記事
向野墓所/紹介記事

三河七御堂

赤岩寺/紹介記事
普門寺/紹介記事
財賀寺/紹介記事
全福寺/紹介記事
鳳来寺/紹介記事
金蓮寺/紹介記事

参拝記

三河湾オレンジロードの東側に入っていく形になるのですが、非常に場所の説明が難しいので、地図を載せておきますので、確認をしてみてください。

長泉寺の事を調べていくと、長泉寺、その隣にある八幡宮の場所あたりに五井城があったと伝えられています。この辺りは後日記事をアップさせていきますので、追記で記事へのリンクを張っておきます。

境内入口

こちらが長泉寺の境内入口になります。
石柱、灯篭を有しています。

この脇には、鎮守社の祠が鎮座しています。

山門

この朱塗りの四柱門が一説では五井城からの移設されたと言われている山門になります。
五井城は徳川家康の関東移封に伴い、五井松平氏も下総に移った時に廃城となったと言われています。関東移封が天正十八年(1590年)ですので、少なくとも築430年近い四柱門という事になります。
この長泉寺の四柱門はしっかりと補修が行われていて、そこまで古さを感じさせませんね。

この四柱門には、”龍田山”と書かれた山号標が掲げられています。

参道

参道の両脇に、三十三観音が安置された観音堂が据えられています。

石段を上った先に本堂が見えていますね。

手水舎・水盤

木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。
この手水舎にある井戸が御由緒にも出てきた行基大師が造ったとされる井戸の一つになるそうです。

本堂

入母屋造平入の本堂になります。
非常にどっしりとした感のある本堂ですね。

この本堂の脇には・・・

渡り廊下の部分に設けられた鐘楼が据えられています。
鐘楼門の様な造りになっており、一階部分が通り抜けできるようになっています。
この鐘楼を抜けた先に、安達盛長の五輪塔や五井松平氏の墓地があります。

安達藤九郎盛長五輪塔

蒲郡市の指定文化祭になっている安達藤九郎盛長の五輪塔になります。

安藤藤九郎盛長とは?


源頼朝の側近の一人と言われ、頼朝の乳母である”比企尼”の娘”丹後局”を妻にしています。頼朝からの信頼は厚く、しばしば盛長の屋敷を訪れていたそうです。文治元年(1185年)の守護地頭設置により,初代守護に任ぜられその後、少なくとも正治元年(1199年)までは在職したと言われています。三河守護職でありながら、幕政にも大きくかかわり主要御家人の一人に数えられています。

五井松平氏初代~五代目五輪塔

五井松平氏 初代”忠景”-二代”元心(長勝)”-三代”信長”-四代”忠次”-五代”景忠”までの五輪塔が並んでいます。五代目までのはずなのですが、五輪塔が六基並んでいるという事は、どういう事なんでしょうか。

六代目の”伊昌”の時の天正十八年(1590年)関東移封に伴い、下総国銚子飯沼に二千石で移封。その後六千石に加増されて交代寄合の旗本として明治まで続いています。七代目の”忠実”の代から菩提寺は現在の千葉県銚子市にある等覚寺になります。

懸魚・鬼瓦

非常に珍しい形の鰭付き懸魚になります。特殊な意匠ですが、蕪懸魚の派生種と考えればいいのではと思われます。

参拝を終えて

西郡四大寺繋がりで長泉寺に参拝に寄らせて頂きましたが、更に歴史の繋がりが広がってしまいました。
三河七御堂・・・ほぼ東三河に分散して建っているので、すべてを参拝するまでに時間がかかりそうですが、参拝していきたいと思います。

西郡四大寺

正祷山 長存寺
愛知県蒲郡市上本町四番地五号

下ノ郷鵜殿氏の菩提寺

龍台山 天桂院
愛知県蒲郡市蒲郡町荒子八十三番地

西郡松平氏の菩提寺
五十一代横綱玉の海の墓地

楠林山 安楽寺
蒲郡市清田町門前四番地

久松俊勝の宝筐印塔

龍田山 長泉寺
蒲郡市五井町岡海道七十六番地

安達藤九郎盛長の五輪塔
五井松平氏の菩提寺
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