岡崎三十六地蔵 岡崎市

九華山地藏院(愛知県岡崎市福寿町) 岡崎三十六地蔵十三番札所

2021年5月1日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名九華山地藏院
所在地岡崎市福寿町一丁目十六
御本尊阿弥陀如来
宗 派浄土宗
創 建不明
札 所岡崎三十六地蔵霊場 十三番札所
御朱印
H P

参拝日:2020年11月18日

沿革・由緒

 徳川家康の正室「築山殿」所縁の寺院であると「おかまいりの札所説明」ではそう書かれています。天正七年(1579年)に松平信康の正室「徳姫」の『12か条の訴状』により織田信長から家康に対し「松平信康」そして信康の母であり家康の正室「築山殿」に処刑を命じたと言われています。家康も嫡男信康の処刑など簡単に受け入れる訳もなく、信長の居城「安土城」に酒井忠次などを派遣したそうですが、信長の意思は変わらなかったとか。

 天正七年八月、徳川家康は正室「築山殿」の処刑を決断します。岡崎城に居していた「築山殿」は浜松城の家康の下に向かう途中なのか、八月二十九日、佐鳴湖近くの遠江国敷知郡小藪村(浜松市中区富塚)において岡本時仲、野中重政、石川義房らによって殺害されます。享年三十九。築山殿の首級は安土城の信長の元に届けられ、首実検の後、徳川方に戻され、岡崎市に首級を埋めた首塚が設けられます。(現在、岡崎市八柱神社境内にあります。)遺骸は現在の浜松市中区にある高松山西来院にて埋葬され築山御前の廟堂・月窟廟が設けられています。

 以上が徳川家康の歴史を調べると出てくる築山御前の最後になります。しかし、今回参拝する地蔵院には伝えられている歴史とは異なる寺伝が伝えられているそうです。

 天正七年、徳川家康は正室「築山殿」の処刑を決断します。岡崎城に居していた「築山殿」は場所は不明ながら家臣により殺害されます。享年三十九歳。築山殿の首級は安土城の信長の元に届けられ、首実検の後、徳川方に戻され、岡崎市に首級を埋めた首塚が設けられます。(現在、岡崎市八柱神社境内にあります。)遺骸は岡崎城から北にある能見ヶ原に埋められ、その塚には地蔵尊が建立されたと伝えられています。

 築山殿を殺害したという遠江国敷知郡小藪村から能見まではかなり距離があり、遺骸を運ぶには距離がありすぎるかな?とも思いますし、そもそも遠江から三河に遺骸を運ぶ理由が見当たらない訳です。築山殿は今川氏の家臣「関口親永」になり、親永は家康が今川家から独立し織田信長と同盟を結んだ時にはその関係を疑われ自決しています。そして、嫡子「松平信康」の正室は織田信長の娘「徳姫」であり、築山殿の周囲は元々敵方だった織田方ばかりで孤独を感じていたのではないかと思うのです。家康にしてみればほぼ一緒に暮らしてこなかった築山殿の気持ちがわからなかったかな?とも思わなくもないですがそれでも遠江で殺害した築山殿の遺骸をわざわざ自らの出身地である岡崎に運ぶかといえばそれは無いよなあと思わざるを得ません。

 こんなことを考えると能見ヶ原に葬られたというより、この能見ヶ原に築山御前に仕えていた者達が主であった築山御前の慰霊碑、または遺品などを埋めた塚だったのではないかと思います。 

 幕末の慶應元年(1865年)に智厭尼が荒廃した塚をみて、その塚に据えられていた地蔵尊の首は落ちている様を哀れみ、念仏を唱えて、地蔵尊の首を取り上げて躰にのせるとなんと肉付落ちる事は無く、智厭尼はこの地蔵尊を本尊とする堂宇を建てたのが地蔵院の創始であるといいます。
 (旧)岡崎市史を読むと、私庵の一つに福寿町に地蔵堂の名を見つける事ができますが、浄土宗の寺院としてはその名を見つける事ができなかったところから、昭和四年以降真福寺にある浄土宗の寺院「菩提山西居院」によって管理される事となり浄土宗の寺院になったのだろうと思います。

 天正七年(1579年)、家康公の正室・築山御前は、家康公の命により家臣に殺害され能見ヶ原に葬られ、その塚の前に地蔵尊が建立されたと伝えられています。歳月とともに塚は荒れ、地蔵尊も朽ちて首が落ちてしまいます。
 慶應元年(1865年)頃、智厭尼という老尼僧がこの有様を嘆き悲しんで昼夜塚前で念仏を唱え続け、落ちてしまった地蔵尊の首を取り上げて躰にのせたところそのまま肉付き落ちることはなかったそうです。智厭尼は大変喜んで塚前に小庵を建て、そこに地蔵尊を移して念仏しました。その地蔵は「首切り地蔵菩薩」と呼ばれるようになります。智厭尼は、地蔵菩薩の誓願いを人々に伝え、特に、妊婦の安産・乳児の無事の成長を願いいつくしんだため、「児育地蔵菩薩」とも称され、安産と乳児の無事の成長を願う人々の信仰を集めました。

おかまいり公式サイトより

霊場をめぐる

 「岡崎三十六地蔵霊場&岡崎十二社を巡る徒歩の旅(今回名付けてみました。)」二カ所目の目的地となる岡崎三十六地蔵霊場の十三番札所「九華山地藏院」を目指して、「照光山安養院/紹介記事」を出発します。

 この記事を書いている時点でスタンプラリーに使うスタンプ台などが設置されているのかは不明ですが、現在でも「おかまいり」の公式サイトが稼働している(H3.4.29現在)ので、まだスタンプラリーは実施されているのかも?。巡ってみたいと思った方は、まだスタンプラリーがやっているかどうかを岡崎市観光協会に問い合わせる事をお勧めします。

 リブラから安養院から地蔵院に向けて走る南北の市道を「城門通り」を歩いて向かいます。安養院からは大体300m程の距離です。
 先ほども述べていますが、今回参拝する地蔵院は元々私庵であることもあり、外観は街中に鎮座する地蔵堂の雰囲気を強く感じます。

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浄土宗は赤地に文字ぬきのスタンプ!

参拝記

 この建物の造りをどう表現したらいいのかよく解らないのですが、地蔵院の本堂部分は入母屋造妻入りの向拝の設けられている様式になっていますが、その本堂を囲むように庫裏が作られていて、寄棟造の大屋根がかぶさっている感じですね。

 札所本尊はこの地蔵院を建立する切っ掛けとなったという地蔵尊(首切り地蔵尊)になるのですが、本堂の中に奉安され秘仏となっているようです。その為、スタンプ台は本堂前の縁側?濡れ縁の場所に置かれています。雨が降っている時は風向きによっては雨が吹き込んでしまいそうな場所ですが、こういった感じでスタンプを設置してくれると非常にスタンプが押しやすくてたすかります。

 到着した時、地蔵院の境内にある地蔵堂となるこちらに奉安されているのが岡崎三十六地蔵の札所本尊だとおもったのですが、前述しているようにこちらのお地蔵様は岡崎三十六地蔵の札所本尊ではなかったようですが、それぞれ子供を抱いているお地蔵様が奉安されています。
 このお地蔵様は智厭尼が、妊婦の安産・乳児の無事の成長を願い、人々の信仰を集めたという事と強く関連しているお地蔵様なのかなと思います。

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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名九華山地藏院
所在地岡崎市福寿町一丁目十六
最寄駅名鉄バス「能見町バス停」徒歩3分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

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少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

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