寺院情報
寺院名 | 宝亀山蔵福寺 |
所在地 | 名古屋市熱田区神宮二丁目十一番十二号 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 西山禅林寺派 |
創 建 | 不詳 |
札 所 | 大名古屋八十八 四十九番札所 名古屋七福神/恵比寿 |
御朱印 | 〇 |
H P | ー |
参拝日:2020年2月5日
由緒・沿革
慶長年間による火災により記録を悉く焼失してしまい、創建根月なども不詳となってしまったそうです。その後、傳空周賢阿悦を中興開山として復興した様です。
延宝四年(1676年)、藩主徳川光友の命により鐘楼が蔵福寺境内に建立し、時の鐘を始めます。
時の鐘とは
尾張藩の民衆に時刻を教える為に設置された鐘の事のようです。桜天神、熱田蔵福寺、清洲清涼寺、鳴海如意寺、横須賀長源寺、五百羅漢大龍寺に設置されていたとようです。この中で、蔵福寺は、東海道の「七里の渡し」からも近く、渡し船の運行には特に時刻を知らせる時の鐘の音が重要となり、七里の渡しを支える重要なものになっていったといいます。
蔵福寺の鐘楼は太平洋戦争の空襲で焼失してしまいましたが、半鐘は戦時中の供出から難を逃れ現在では名古屋市にて保管されています。
七里の渡し後に再建された「時の鐘」の鐘楼になります。
現在では、鎮守社であった「多賀神社」がかなり大きな社殿となっている神仏習合的な寺院となっています。しかし別当ではなく鎮守社であった事から主は蔵福寺であり、多賀神社が大きくなったとしても鳥居が設けられていない点からもこの辺りが伺えます。
名古屋二十一大師を行くー寄り道遍ー
熱田神宮の南正門から国道一号線の間にあるのが今回参拝する「宝亀山蔵福寺」になります。道路を挟んで反対側には「ひつまぶし」で有名な蓬莱軒が建っています。蓬莱軒という店名の由来はよくわかりませんが、「蓬莱伝説」となんらか関係があるのかもしれません。
そして、ここ「宝亀山蔵福寺」は寺号に「亀」がつく事から蓬莱伝説に起因する古刹であるとされています。下調べなんかせずに巡っている為、最初寺院とは思わず、「多賀殿」と看板が出ていた為、多賀神社の関係なのかな?と思ったのですが、それにしては鳥居が無い・・・。おかしいなあと思いつつ参拝して寺務所を見ると「蔵福寺」の文字があり、やはりここは寺院だったかと確証した次第です。
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参拝記
正面に熱田神宮、左手に今回参拝する蔵福寺、右手にひつまぶしで有名な蓬莱軒神宮店になります。参拝中もウナギを焼くいい匂いがただよっていました。お腹すいちゃうぜ。
蔵福寺の境内入口になります。そんなに広い境内ではないので、山門などはなく、境内に駐車場がもうけられています。寺号標などもなく、写真左手にみえる「初えびす多賀殿」「多賀壽命殿」と書かれた看板が設けられています。
本堂
切妻造瓦葺妻入りの唐屋根の向拝が設けられた本堂になります。本尊である阿弥陀如来は厨子の中に安置されているようで、外からは確認できませんでした。
多賀壽命殿
入母屋造銅葺平入の唐屋根の向拝が設けられた社になります。こちらに鎮守社である「多賀社」と名古屋七福神の恵比寿様と奉安しているようです。
多賀社は滋賀県犬上郡多賀町に鎮座する「多賀大社」の事であり、祭神は「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」となります。伊邪那美が亡くなり、その死を受け入れられず黄泉の国まで追いかけた伊邪那岐は、(腐敗してしまった)伊邪那美の姿に恐れ戦き黄泉の国から逃げ帰ってきます。筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にて禊を行い、天照大御神、須佐之男命、月詠命を産み、その後、淡道の多賀の幽宮に静まったと古事記に書かれてます。
この古事記にて伊邪那岐命が静まった場所とされているのが「多賀大社」になります。伊邪那岐命は、この地にお静まりになられた後は古事記には登場してきません。
http://www.tagataisya.or.jp/
また、現在活発に活動されている「なごや七福神」とは異なる七福神霊場である「名古屋七福神」の恵比寿札所にもなっています。
名古屋七布陣の札所一覧
大黒天 | 本遠寺 | 東区桜ノ町 |
布袋尊 | 大龍寺 | 東区新出来町 |
福禄寿 | 清音寺 | 枇杷島町大字東枇杷島 |
寿老人 | 六角堂 | 中区主水町 |
毘沙門 | 法應寺 | 中区白川町 |
弁財天 | 七ツ寺 | 中区門前町 |
恵比寿 | 蔵福寺 | 南区熱田市場町 |
大正四年発刊「名古屋市史」より
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地図で所在地を確認
寺院名 | 宝亀山蔵福寺 |
所在地 | 名古屋市熱田区神宮二丁目十一番十二号 |
最寄駅 | 名古屋市営地下鉄名城線「伝馬町駅」1番出口徒歩5分 |