神社紹介
神社名 | 春日神社 |
鎮座地 | 愛知県名古屋市中区大須三丁目四六番三四号 |
御祭神 | 武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神 |
旧社格 | 郷社 |
創 建 | 天暦二年(948年) |
神名帳 | - |
境内社 | 天王社 |
例祭日 | 十月十九日 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2019年12月11日
由緒・沿革
名古屋市営地下鉄の鶴舞線と名城線の連絡駅になっている「上前津駅」八番出口すぐに鎮座している神社が今回参拝する「春日神社」になります。上前津駅近くであり大須通沿いに鎮座しているので、「ああ、あそこの神社か!」思い出して頂ける方も多いのでは?
社名にある様に、今回参拝する春日神社は、奈良県に鎮座する「春日大社」より勧請を受けた春日神(江戸時代までは春日権現とも呼ばれていました。)を祀る神社になります。同様に春日大社より勧請された神社は全国で約千社ほどあります。
春日神社は藤原氏が平城宮近くに建立した神社になります。その為、春日大社が祀っている祭神は、中臣氏・藤原氏氏に所縁の神々になります。
奈良時代の神護景雲二年(768年)に「藤原永手」により、御蓋山の麓に社殿を造営。また別当寺だった「興福寺」も藤原氏の氏寺というべき寺であり、平安時代になると藤原氏の権力が強り、大和国において強大な影響力を誇る事になります。興福寺と春日大社は表裏一体の様に運営されていましたが、明治維新により、廃仏毀釈の運動と神仏分離令により興福寺と春日神社は切り離され、興福寺はそれまでの栄華とは一転し、廃寺寸前までに追い込まれていまします。廃仏毀釈の動きも、明治政府が考えていた以上の動きになってしまっていた為、政府の動きによって廃仏毀釈も徐々に治まり、興福寺も廃寺を免れています。
ところで、春日神社について説明すると「中臣氏」と「藤原氏」が出てきます。歴史の授業で中臣鎌足の息子が藤原不比等であるという事は教科書に載っているはずですので必ずならっていると思いますが、これでは中臣氏が改姓して藤原氏になってしまったと誤解を招いてしまっていると思うのです。
中臣氏は元々は祭祀を司る一族になります。この中臣一族の中から「中臣鎌足」が現れ、大化の改新などの功績により「藤原性」を給わったのが藤原氏の始まりとされます。そして鎌足の直系卑属にのみ「藤原性」を名乗る事が許されるようになります。そして、鎌足の血筋以外の中臣氏は藤原性を名乗る事は出来ませんでした。しかしこの区別は政治体制が体系づけられるようになるととても重要な事になります。
律令体制では、神祇官と太政官というのが政治の最高責任者という位置づけになり、祭祀を司る神祇官は、政治と司る太政官より上の地位にあるとされていました。そして、藤原氏が太政官、中臣氏が神祇官を掌握するようになっていきます。
そんな中臣氏と藤原氏の氏神を祀る春日神社と氏寺である興福寺はそりゃとんでもない権力・影響力を誇る神社仏閣になりますよね。織田信長・豊臣秀吉の時代になるまでその影響力を持続していたそうですのでどれだけ強大な力を有していたんでしょうか・・・。
春日大社の祭神
・武甕槌命
鹿島神宮の祭神であり、中臣氏の氏神
・経津主命
鹿島神宮とは対となす香取神宮の祭神であり、物部氏の氏神
・天児屋根命
中臣氏の祖神であり、中臣氏、藤原氏の繁栄から出世の神とされる。
・比売神
天児屋根命の妻
そんな春日神社から勧請を受け、現在の地に春日神社を創建したのが天暦二年(948年)になります。建立したのは郡司の藤原某といいます。天暦の頃の尾張国司も藤原南家の藤原興方が勤めていたので、前述したようにこの地に藤原氏の氏神を勧請したのだと想像できますね。
春日神社に由緒書きが掲げられているのでこちらを紹介します。
当社の創立の起原は称徳天皇の御宇神護景雲年間奈良春日大社創祀に際し常陸国鹿島神宮の御祭神武甕槌命の御神霊を大和国春日山に御遷座の途次当尾張国山田荘(現在地)に御假泊あらせられたるに因み天暦二年時の郡司藤原某南部春日野を模して春日四柱大伸を奉祀したものである。その後文亀年間前津小林城主牧与左衛門尉長清(正室織田信長の妹)の崇敬を受け牧氏退転の後尾州藩主も亦代々崇敬の誠を捧げ殊に二代徳川光友公の母君乳の疾に悩まれし折神木椎の木を採りて祀られ平癒しその頃より婦女はこの木を崇め何時の頃よりか変じて産の守となった。惜しくも戦災の為椎の木は焼失した。現在当市中央の地にあり氏子数五千余戸を擁す。
「境内由緒書き」より
由緒を読むと、この地に常陸国に鎮座し「鹿島神宮」より御祭神「神武甕槌命」の御魂を大和国春日野の地へお運びする巡行の際、「御旅所」となったとされる場所に建立したという事らしいです。当時の海岸線は現在の海岸線よりかなり内陸に入っていたそうで、熱田神宮が鎮座する場所から熱田台地と呼ばれる高台が海岸線だったといわれています。巡行一向が熱田の地から海岸線沿いに伊勢国に抜けていく丁度その進路に当たる場所が現在の大須辺りなのでしょう。
そこから一気に時代は下り、「富士浅間神社」の記事の中でも登場した「牧与左衛門尉長清」がここ「春日神社」にも関わっているようです。かなり神道に崇敬が篤い武将だったようで、名古屋市史にはこんな記述がありました。
・・(前略)・・当村の領主牧興三左衛門尉長清は、小林城を築きてここに居り。小林村に「三輪神社」を祀り、前津村に「春日神社」を祀り、本土の神と崇めしものならん。・・(後略)・・
小林城下には小林村と前津村があった事がここから読み取れます。そしてそれぞれの村の鎮守として「三輪神社」と「春日神社」を崇敬、保護(再興)したのでしょう。そしてその後、自らの山岳信仰の拠り所として「富士浅間神社」を創建した(諸説あるのは記事を参照してください。)ようです。
その後、名古屋城築城に伴う城下整備で、この前津小林村周辺には清州越しで移された神社・寺院が立ち並ぶ南寺町の中に組み込まれるような形になります。そんな中、春日神社にも別当寺が設けられるようになり、最初は「醍醐院」が勤めていましたが、天和元年(1681年)に焼失。貞享二年(1685年)、美濃国にある道樹寺の塔頭「西の庵」を春日神社の境内地に移し、「寿落山泰昌寺」と改称し明治維新の神仏分離令までの間、別当を勤めていたそうです。現在は廃寺となっています。
しかし、江戸時代などに設けられた別当寺は、明治維新によって廃寺となってしまうケースが非常に多いですね。大規模な寺院・神社などでは住職と神職が別に存在していたので、神仏分離だと言われても、何とか対応できた(愛宕神社と白雲寺の関係の様に神仏が一体となってしまっていた所ですと、規模が大きくても別当寺が廃寺となってる所があるようですが。)のでしょうけど、地方の別当寺では、住職が神事を執り行っていましたので、神社と寺院を分ける事が困難だったのでしょう。そこに、「これからは神道を大切にしますよ」と宣言している明治政府に、「神職と住職、どっち選ぶ?」なんて聞かれればそりゃ「神職」を選ぶのが大多数になるに決まっている訳で・・・。この結果、大多数の別当寺(神宮寺)が破却される結果に繋がっていきます。ただ、神職を選んだ当時の方々も、その後の神道は国家の宗祀の考えの元、「神道=非宗教」とされ神社は国が管理するようになり、神職から離れざるをえなくなります。後任は国から神職が派遣されるようになっていきます。第二次世界大戦以前は神職は国家公務員です。
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名古屋二十一大師霊場を行く-寄道遍-
名古屋二十一大師二番札所「稲園山長福寺(七寺)」と同じ大須通に面して鎮座しているのが今回参拝する「春日神社」になります。七寺から名古屋二十一大師三番札所「成田山萬福院」に向かう道中に赤い瑞垣、鳥居などが見えたので、立ち寄り参拝していく事にしました。駐車場はないと思って頂いた方がよいと思いますので、春日神社に参拝さえる場合は、大須散策と合わせた方がよろしいかと思います。
まったくの寄り道になってしまいますが、是非春日神社に参拝した際には、すぐ隣の三井住友銀行上前津支店の建物も見てほしいなと思います。名古屋の空襲にも耐えた昭和六年建築の建物になります。戦前は欧米風というかギリシャ神殿はモチーフにしたような装飾の建物が多く建築されたというイメージがあるのですが、まさにこの建物もそのイメージそのものです。
え?そんなに古かったのかと思われる方もおおいのでは?
参拝記
長福寺(七寺)から片道三車線の大須通を東に向かっていくと、左手に春日神社が見えてきます。非常に交通量が多い道路になりますので、運転は慎重に。
境内入口
境内前がすぐ歩道になっていて、正面からだとまったく全景がとれなかったので、少し横にずれたところからの撮影です。
朱塗りの瑞垣と灯篭、一の鳥居は石造りの明神鳥居、そのすぐ内側には朱塗りの二の鳥居が据えられています。鳥居の脇には社号標も据えられていますね。
手水舎・水盤
木像茅葺?四本柱タイプの手水舎になります。
朱色に統一されている様な春日神社の境内にあって唯一といっても過言ではない朱色じゃない建物かな。
社殿
重層造りの拝殿になります。こういった建物をどう表現したらいいのかわかりませんが、拝殿の様式としては、「春日大社」の拝殿を模した形になるようです。
本殿は拝見する事ができないので、どういった造りになっているのかは不明ですが、史料によると春日大社と同じく春日造の本殿になっているようです。
境内社
境内社の天王社になります。祭神は素戔嗚尊。津島神社の別称かなと思われます。
鎮座地を地図で確認
神社名 | 春日神社 |
鎮座地 | 愛知県名古屋市中区大須三丁目四六番三四号 |
最寄駅 | 名古屋市営地下鉄 名城線・鶴舞線「上前津駅」八番出口徒歩1分 |
次の目的地は?
名古屋二十一大師霊場三番札所「成田山萬福院」を目指します。
春日神社の参拝を終えて、大須地区から離れていく事になります。時間があれば、まだまだ大須地区には紹介したい神社・寺院があるので参拝していきたかった所なんですが、あまり寄道ばかりしていると主の目的である名古屋二十一大師の遍路が全く進まないので、泣く泣く先に進むことにします。名古屋二十一大師霊場二周目の遍路の際は、今回巡っていない大須地区の神社・寺院を参拝・紹介していこうと思います。