安祥城周辺を散策、紹介してきましたがその「安祥城周辺散策」も今回が最終回となります。そんな最終回となる今回は、一本の紹介記事にするには情報量が少ないなあと思っていたスポットを何ヶ所か纏めて紹介していく事にしようかなと思っています。
神明社
以前紹介している「七ツ井/紹介記事」の中の「筒井」からすぐ東側に鎮座している「神明社」になります。安祥城周辺の東尾組の方達が奉祀している神社の様ですね。
鳥居と一段高くなった場所に本殿が鎮座している神社になります。
ここ神明社の詳しい資料がないので詳細は不明でいつ頃勧請された神社なのかまったくわからないのですが、東尾組の産土神として崇敬されているのでしょう。
安城市場神
「七つ井」のひとつ「中井」から少し北にすすんだ所に、東尾公民館があり、その向かい側に常夜燈などと共に「安城市場神」と紹介されてる「大黒石」と「恵比寿石(エベス石」があります。秋葉山常夜燈・秋葉社・大黒石・地蔵堂と並んでいます。
公民館の一角に、安城市場神の説明板が設置されていました。
安祥城の北側に位置するこの辺りは、その昔は安祥城を東西に抜ける街道沿いだったと思われ、城の城下街という特徴もありこの辺りに「市場」が設けられていたのでしょう。そしてその市場の安全を見守る守護神として街道に一対の自然石を置いたと書かれていますね。ただ、三河地方ではこういった風習を見る事が出来るのはここ安祥城下のみの様です。交易の中どこかの地域からこういった風習が持ち込まれたんでしょうね。
大黒石
祠の間に丸くなった自然石が置かれていました。この石こそが「大黒石」の様です。
エベス石
「エベス石」が御神体となったとされる「市杵嶋姫神社」になります。こちらの神社は東尾市場組の産土神として崇敬されているようですね。
秋葉山常夜燈
「大黒石」の左隣に据えられているのが「秋葉山常夜燈」と「秋葉社」になります。元々は別の場所に据えられていた常夜燈と秋葉社をここに移したのだろうと想像されます。ここの常夜燈は、屋根部分に太陽光パネルが設置されていて、たぶん火袋石には太陽光充電型のLED証明が据えられていて、夜になると明かりが自動的に点灯するようになっているんでしょうね。まさに時代の移り変わりを表している感じがします。
[ad]
旧安城東尾信用販売購買組合関連施設
安城市場神のすぐ近くに「安城東尾信用販売購買組合」の事務所や共同工場、倉庫などが現存しています。事務所だった建物は東尾公民館として転用されている様です。
この建物が安城市の指定文化財などになっている訳ではないのですが、安城市のサイトで歴史的建物として紹介されていたので、当サイトでも取り上げてみました。安城市にはこういった各地域で発足した農協関連の建物が現存していて、大正から昭和初期に建てられた建物が紹介されています。
https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/shisetsu/kyoikushisetsu/maibun-nokyo-higashio.html
追分の石像
安城市場神から北に進んだ先に十字路があり、その十字路から右側を望むと、上記写真の様な追分の様な場所があって、そこに石像が据えられていました。皆様の御住いの地域でもこうした小さな追分の中央にはお地蔵さんや小さな祠が据えられている所があるのではないかと思います。ここでは親子が彫られた石像が据えられています。
明治三十三年に据えられた石造の様です。どういった由緒があるのかは分かりませんが、ついつい目が奪われたので紹介してみました。
荒神社
県道48号岡崎刈谷線の「拝木交差点」の角に「荒神社」が鎮座しています。小さい神社ながらも社号標、鳥居、石灯篭、水盤などが据えられています。只こちらの荒神社も詳細は不明となっています。
最初、無格社の神社なのかなと思っていたのですが、資料を調べてもここ荒神社の名前を見る事ができませんでした。荒神社周辺の自治会を何組と称するのかは分かりませんでしたが、荒神社も地元の産土神として祀られてきた神社なんだと思われます。
こちら荒神社も、以前紹介した安城市小川町に鎮座する「荒神社/紹介記事」と同様に御祭神は「火産霊神」または「火之加具土命」になるのかなと思います。中国・四国地方を中心に信仰されている「荒神信仰」なんですが、それ以外の地域ではあまり広まっておらず、どちらかと言えば土着信仰に近いようなのですが、そんな中、安城市には今回で二社目の荒神社参拝となりました。何か中国・四国地方と繋がりがあったのかな?
東条塚・千人塚
今まで安祥城の北側を紹介してきましたが、最後に安祥城南西側にある「東条塚」と「千人塚」と呼ばれる松平家vs織田家による安祥合戦関連の史跡を紹介していきます。
安城市営の多門霊園の中に、天文九年(1540年)、安祥城を攻め落とすべく進軍してきた織田信秀軍と安祥城城代「松平長家」が激突した戦いがありました。この安祥城の危機に東条(青野)松平家の松平康忠が援軍として駆け付けたがこの場所で戦死してしまったと言われています。そして戦死した場所に築かれたのが「東条塚」であるとされています。
ちなみに、此処で戦死したとされる東条松平家の松平康忠なんですが、東条松平家の家系に「康忠」という武将の名前が登場してきません。「寛政重脩諸家譜」によると、安祥城城代「松平長家」の弟で矢田松平家の祖となった「松平張忠」の子に「松平康忠」の名前を見る事ができ、この康忠の説明で「長家とおなじく討死す。」とあります。
この事から、ここ東条塚は矢田松平家の松平康忠を弔うために築かれた塚ではないかと当サイトでは推測しています。
多門霊園の隣にある安祥寺墓地に「千人塚」があります。こちらは現地に説明板などがなく、事前に情報を得ていないと素通りしてしまいそうな感じがします。
こちらの「千人塚」は上記の松平康忠が率いて康忠と共に討ち死にした家臣達を弔った塚であると伝えられています。
今回巡った場所を地図で確認
安祥城周辺には色々な歴史的スポットが数多く存在しています。せっかく城郭巡りで安城に訪れたのですから、安祥城周囲も是非巡ってみて下さい。