神社紹介
神社名 | 恵比寿神社 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市島町一〇番地 |
御祭神 | 事代主命、天照皇大神、豊受姫命 |
旧社格 | 村社 |
創 建 | 建保二年(1214年) |
神名帳 | ー |
境内社 | 稲荷社 |
例祭日 | 十月第四日曜日 |
御朱印 | 〇(要予約) |
H P | ー |
参拝日:2020年11月25日
御由緒
社頭由緒書きによると、
「順徳天皇の御代、皇女様に野狐がついて御悩み重く、これを除く為「蟇目(ひきめ)の法」の使い手の土佐の国勤王の武士「本間三郎源重光」が都に召されて野狐を退治した。皇女様の御平癒は帝の御祝一方ならず今は亡き野狐の霊を祭らむとの仰せに日本六十余州の土を集めて築山稲荷として建立し、本間家が島町に本宅を構えて仕えた。」
と記されています。
創建したのは「本間三郎源重光」とありますが、岡崎市史では「本間三郎重光」とされ、またどうやら「本間三郎平重光」とする史料もある様で、源氏と平氏の氏の両方の氏を称している伝承が残っている中々謎多き人物になります。
この「本間三郎重光」という人物は、岡崎市の神社・寺院に非常に大きな影響をもたらした人物であると思われ、後述する神社・寺院の創建に深くかかわっている様です。
上記で述べていますが、野狐の霊を祭る為に、日本六十余州の土を集めて築かれたのが「築山」であるとされ、この築山に勧請され建立されたのが「築山稲荷社」になります。そして同時期に築山の麓に順徳天皇の皇女利慶徳大比丘尼を開基として建立されたのが、「総持尼寺」であり、目代であったのが本間一族になります。そして、この総持尼寺の鬼門守護として建立されたのが「岡崎天満宮」になります。
築山稲荷社と総持尼寺は江戸時代に籠田総門が築かれた時に現在の地に遷座されたと伝えられています。籠田総門を築くときに「築山」も削られてしまったとか。ちなみに、築山稲荷社と総持尼寺の元の境内地には現在岡崎三十六地蔵三十六番札所である「無量山西岸寺/紹介記事」が建っています。
正直なところを言えば、これらの神社・寺院にどれだけ朝廷と本間一族が関わっているのかは一切不明な様で、総持尼寺の建立の由緒については、本間氏による創作であると新編岡崎市史では記されています。それでも、本間氏一族が岡崎の神社・寺院については平安末期から鎌倉初期に影響を与えたのは間違いない様ですね。それだけの力を持った豪族だったのでしょう。ただ、鎌倉時代に起った承久の乱以降、岡崎の地は足利一党の勢力圏に組み込まれていき、本間一族の勢力は衰退していった様です。
恵比寿神社は島町四番地にあり、境内二百五十九坪九勺を有す。もとは蛭子大神宮と称し、岡崎十二社の内三番の社であった。其創立は、社記によれば建保二年本間三郎重光の草創なりと伝え、三國聞書集には矢作宿兼高長者の勧請なりとしるしてある。その後、慶長九年重光の子孫孫五郎左衛門倫重に至り、邸内五畝歩を社地に區畫して諸人の参拝を許したと伝う。以来島町の産土神となり、慶応二年本間信堅社殿を再建す。明治五年十月十二日村社に列せられる。もと境内に金比羅社、秋葉社、御鍬大神宮の三社があった。
昭和四年発刊「岡崎市史」第七巻より
御祭神は事代主命、天照皇大神、豊受大神である。現今の殿宇は本殿、拝殿にして、境内に稲荷社、石灯篭があり、例祭は十月十九日二十日。
霊場を巡る
おかまいり岡崎三十六地蔵三十五番札所「六地蔵堂/紹介記事」の参拝を終え、再び国道1号線を東に進んでいきます。国道1号線と名鉄東岡崎駅の正面から北に延びるモダン通りとの「島町交差点」の角に今回参拝する「恵比寿神社」が鎮座しています。南向きの社殿になり、国道一号線からは社殿の背面が見える・・そんな位置関係になります。
元々は「蛭子大明神」と称し、再編前の岡崎十二社の三番に名を連ねる神社になります。明治時代の神仏分離令により、御祭神を「事代主神」とし、社名を「恵比寿神社」と改めています。元々の社名から、「蛭子神」を祀っていた神社だったのではないかと思うのですが、この辺りはどうなんでしょうね。
岡崎城下に鎮座する神社を巡る「おかまいり岡崎十二社スタンプラリー」
かつては岡崎城下に鎮座する十二社を巡る霊場として造られたようですが、その後神社の合祀などがあり、今回スタンプラリーを実施する辺り松平家ゆかりの神社を加えるなどして十二社を再編した「(新)岡崎十二社」として生まれ変わっています。
参拝記
国道一号線とモダン通りの「島町交差点」に恵比寿神社が鎮座しています。丁度交差点の角にはビルが建っていて、そのビルの南面に参道が設けられています。
参道の入口には社号標がすえられていてますが、石灯篭などは見当たらないですね。
切妻瓦葺平入の向拝が設けられた簡素な造りの拝殿を有する社殿になります。社殿の前に狛犬一対、石灯篭一対、石造神明鳥居が据えられています。
境内は、月極駐車場で貸し出されている様ですね。この辺りは岡崎市の中でもビジネス街と呼んでもいい感じの場所になっていて、事務所などが多く、いたるところが月極駐車場となっていますね。一般家庭の庭も月極駐車場で貸し出している所があるくらいです。
拝殿前にはなにやら参拝する時に叩く為に据えられているのであろう板が設置されていました。この打板は鈴の代わりに叩けばいいのかしら?
「祓ひ給へ清め給へ守り給へ幸へ給へ」
恵比寿神社の境内の隅におかまいり"岡崎十二社めぐり"の赤色のスタンプ入が設置されています。支柱に設置されたシンプルな造りになっています。
境内社の稲荷社になります。社殿の向かって左手に鎮座しています。
地図で鎮座地を確認
神社名 | 恵比寿神社 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市島町十番地 |
最寄駅 | 名古屋鉄道 名古屋本線「東岡崎駅」徒歩7分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。
ちなみに、岡崎市切越町にある「八面石塔」は"平氏の流れをくむ"本間一族の墓であるとも伝えられています。本間三郎重光がこの本間一族の流れを組んでいるのかは正直わからないのですが、八面石塔が建立されたと想定されている時期は平安末期から鎌倉時代初頭・・・・重光が岡崎に六十四州の土を集めて山を築き築山稲荷を勧請したのも鎌倉時代初頭となり、時期が重複していますし、「蟇目の法」の使い手という事からも勝手な想像で山奥の神秘的な場所に墓所を築いたのではないか・・・とういうことは、八面石塔は伝承通りだとしたら、本間三郎重光の一族の墓所なんじゃないのか?なんて想像が膨らんできます。