寺院情報
寺院名 | 味鏡山天永寺護国院 |
所在地 | 愛知県名古屋市北区楠味碗二丁目七三二 |
御本尊 | 薬師如来 |
宗 派 | 真言宗智山派 |
創 建 | 天平年間(729-49年) |
札 所 | 名古屋二十一大師 九番札所 尾張西国観音 十二番札所 東海不動尊霊場 六番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2020年1月29日
名古屋二十一大師札所一覧
由緒・沿革
(旧)西春日井郡楠村味鋺に、一説では天平十七年(745年)、「行基上人」による建立と伝えられ、始めは「薬師寺」と称しています。天暦二年(948年)に庄内川の氾濫により本尊を残し堂宇すべてが流失し、本尊を安置する仮本堂を建立して数百年の月日が経過したとか。鳥羽天皇の御代、天永二年(1111年)、「西彌」が堂宇再興し中興の祖となります。「西彌」がある日霊夢によって「この郷の人の心は池水になりてぞ宿る夜半の月影」という一首を詠み、歓喜結願を遂げ、都に上りこの一首を奏上し、勅宣を以て寺名を「薬師寺」から「護国院」を改称します。さらにその後「天永寺護国院」と改称しています。この時、法相宗から真言宗に改宗したとされます。
名古屋名所図会にも「護国院(名所図会では天永寺)」が記載されています。現在と同じように、護国院の隣に「味鋺神社/紹介記事」も描かれています。絵柄的には護国院、味鋺神社より「味鋺川」が大きく描かれていますね。味鋺川は現在ではGooglemapで見た限りでは見つからなかったので、庄内川の事なんでしょうか。
平安期から室町期にかけて七堂伽藍が整備され、十二坊の塔頭を有する巨刹だったされますが、応仁の乱以降の激動の時代になり寺勢が急速に失われたそうです。江戸時代に入り、三代将軍家光の時代に本堂が、天明年中には庫裏などの堂宇が再興され復興を遂げていますが、最盛期の頃までは復興していないようですね。
現在では、「北野山寶生院(大須観音)/紹介記事」の末寺となっています。
名古屋二十一大師霊場を行く
名古屋二十一大師霊場遍路の旅三日目です。令和二年(2020年)になって最初の名古屋二十一大師の遍路になります。今回は、六番札所から九番札所までの四札所を納経していく予定です。岡崎から向かうと所要時間が2時間近くかかりそうだなと思ったので、逆打ちになってしまいますが、一番遠い九番札所「味鏡山護国院」から納経していこうと思います。
九番札所と十番札所「雲龍山宝蔵院/紹介記事」は名古屋城からみると庄内川の外側にあります。確か宝蔵院の記事でも書いた様な気がしますが、自分の意識の中で名古屋市と他の市境は庄内川だという意識があったので、地図で場所を確認していた時、ここも名古屋市なんだと認識を新たにしました。
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参拝記
今回納経する「護国院」とその隣に鎮座する「味鋺神社」の境内入口がまさに隣り合っています。元々、味鋺神社は護国院の鎮守社だったとされ、味鋺神社の祭祀は護国院の住職が行っていたそうです。「味鋺神社」は延喜式神名帳にも記載されている式内社です。当時から護国院と隣り合う様に鎮座していたのかは不明ですが、天暦二年(948年)に庄内川の氾濫では、護国院と共に社殿が流失してしまったかもしれませんね。この辺りは、「味鋺神社」の紹介記事をご覧ください。
山門
参拝した当日は、消防の隊員の方達が防火水槽などのチェックを行っていました。(お疲れ様です)邪魔にならないように、ちょっと脇から山門を撮影した為、こんなアングルに。
楼門の山門になります。ぱっと見「仁王門」かと思っていたのですが、四天王門になっています。「持国天、広目天、増長天、多聞天」の四体の像が門を護っています。
仁王門なら空洞になっている「間」と呼ばれる場所にも立像が据えられています。
手水舎
木像瓦葺四本柱の内側に支え柱が設けられている手水舎になります。支え柱が設けられるだけで重厚な感じになりますね。
鐘楼
下段部分が「袴腰」となっている鐘楼になります。なかなかスマートな外観です。
観音堂
重層造りのコンクリート造りの観音堂になります。
本堂
近年造営された本堂になります。一階部分をホールや寺務所とした二階建ての本堂のようです。
不動堂
東海三十六不動尊霊場の札所本尊となる不動明王が奉安されている不動堂になります。脇に名古屋二十一大師霊場の札所本尊である弘法大師像が奉安されています。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
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所在地を地図で確認
寺院名 | 味鏡山天永寺護国院 |
所在地 | 愛知県名古屋市北区楠味碗二丁目七三二 |
最寄駅 | 名鉄小牧線「味鋺駅」徒歩16分 |