
寺院情報
寺院名 | 楠林山和合院安楽寺 |
所在地 | 蒲郡市清田町門前四番地 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 浄土宗西山深草派 |
創 建 | 応永十五年(1408年) |
札 所 | 三河七福神/大黒天 |
御朱印 | 〇 |
H P | ー |
参拝日:2018年10月10日
由緒・沿革
交代寄合である「西郡松平家」の領内に「西郡四大寺」と言われる比較的大きな寺の名数があります。この四大寺に名を連ねているのが今回参拝する「安楽寺」になります。その他三ヶ寺は、「長存寺/紹介記事」、「長泉寺/紹介記事」、「天桂院/紹介記事」になります。
開山は、後小松天皇の御代である応永十五年(1408年)「宏山龍芸上人」によると伝えられます。天台宗勧学院の本尊をこの地に迎え、楠林山和合院を建立。元々は天台宗の寺院だったようです。そしてその後、玉泉院、報土院、光養院、日曜院、光行院の五ヶ院の塔頭が建立され、寛永七年(1630年)本堂が建設されます。
宝暦二年(1753年)に楼門の山門が建築されます。現在、蒲郡最大の山門になり、入母屋造りの二重二階建門で、階上には十六伽藍像が安置されています。
後小松天皇の御代である応永十五年(1408年)宏山龍芸上人が開基という。天台宗勧学院の本尊をこの地に迎え、楠林山和合院院を建立。その後、塔頭五ケ院、山門層門塔を揃える名刹ににありたる。
宝飯郡誌より
歴史探訪
安楽寺は、「久松俊勝」の菩提寺でもあります。
久松俊勝は、徳川家康の母親「於大の方」が松平広忠と離縁し、再婚した相手になります。於大の方は「水野信元」の妹になります。元々は水野家と松平家は共に今川方に与していた為、陣営の連携を強める為に、広忠と於大の方の縁組が行われ、「竹千代(後の徳川家康)」が生まれていますが、その後「水野信元」が今川方から織田方に寝返った為、於大の方は松平広忠から離縁され水野信元の元に戻っています。
阿久比周辺を支配していた「久松家」の協力を得たかった水野信元は、久松家当主「久松俊勝」に於大の方を嫁がせています。
時は流れ、永禄三年(1560年)に発生した桶狭間の戦いの数日前、今川軍の先陣を任されていた「松平元康」は池鯉鮒城から沓掛城に向かう間に、阿久比の「坂部城」に向かい、母「於大の方」の元を尋ねたといい、この時「久松俊勝」と弟たちとも会ったと言われています。(ただ、敵方である水野家の領土を抜けて阿久比に本当に向かったのかは分からない所なんですが。)そして、桶狭間の戦いで「今川義元」が討ち取られると、大高城にいた松平元康は、水野家の領地を抜けて坂部城の久松俊勝と母於大の方の元に向かい、そこから半田から航路で岡崎に向かったといいます。
松平元康が今川家から岡崎城主として独立すると、久松俊勝、於大の方、三名の弟たちを岡崎に呼び寄せ、久松俊勝は元康の家臣となります。
永禄五年(1562年)、松平元康は、「鵜殿長照」が守る「上ノ郷城/紹介記事」を攻め落とすと、久松俊勝に西郡の地を与えて、上ノ郷城主としています。久松俊勝は自らの菩提寺として「楠林山安楽寺」に寺領を寄進しています。天正十五年(1587年)、久松俊勝は岡崎城にて没します。享年六十四歳。遺言によって「花林山崇心寺/紹介記事」にて火葬された後、「楠林山安楽寺」にて埋葬されたとあります。法名は、「陽光院殿前佐州華林崇心大居士」。
また、「於大の方」は俊勝の死後、天正十六年(1588年)から約二年間、安楽寺に滞在中に剃髪し"伝通院"と称したそうです。
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参拝記
国道473号線"水竹町"交差点からほど近い場所に鎮座しているのが今回紹介する安楽寺になります。

参拝者用の駐車場に車を止め、安楽寺前の道路から望むと、非常に大きな松の木が目立ちます。門前は名刹の雰囲気が出ている気がしますね。

歩を進めて、境内入口までやってきました。惣門の奥に、山門が見え隠れしていますね。
惣門

四柱門の惣門になります。よくみたら、大棟の所に鯱が掲げられていますね。
大悲殿

惣門をくぐると、左手に現れる"大悲殿"と書かれた扁額が掲げられた方形屋根の御堂。
中は、十王堂の様に閻魔大王を中心にした十王と観音像が安置されています。
大悲殿とは?
大悲とは観音菩薩の別名で、衆生の苦しみを救おうとする仏や菩薩の広大な慈悲の心を表す。つまり、大悲殿とは聖観音や千手観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物のことを指すそうです。
山門

宝暦三年(1753年)に造営された山門になります。木造建築物では蒲郡市で最大の規模を誇ります。
入母屋造りの二重二階建門の桟瓦葺きになります。二階部分には十六羅漢が安置されているそうです。

山門脇に安置されている観音堂になります。
手水舎・水盤

水盤になります。
なにやら、この水盤を見ると変色している感じがします・・・。
実は平成27年、失火により本堂、鐘楼、手水舎などが消失してしまったそうで、この水盤はその当時の生き残りになります。
本堂跡

ここに入母屋造重層の本堂が鎮座していました。
http://www.sukima.com/26_meisou02_01/01anraku.html
個人ブログの中の記事になりますが、本堂ありし頃の雰囲気を感じてもらえると思うので、ぜひ見てもらいたいと思います。
三十三観音堂

本堂から近い場所に鎮座していた三十三観音を安置していた観音堂になります。
元々周囲はブロック塀づくりだったようですが、屋根は焼失し、観音像自体も火によって変色していたり、破損してしまっていますね。
久松俊勝宝筐印塔

元々久松氏は現在の阿久比町にあたる、尾張国知多郡の坂部城を居城としていました。桶狭間の合戦後、久松俊勝は妻である"於大の方"に付き添うかの如く、家康の元に与する為に岡崎に移住します。坂部城は家康とは血の繋がっていない久松信俊に与え、織田氏の傘下に加わります。そして、上ノ郷城主としてこの地に赴任し、安楽寺を菩提寺と定め、死後この寺に埋葬されたそうです。
当然、俊勝以前の久松氏の菩提寺は知多郡に存在しています。
坂部城址から北に200mほどの距離にある"龍渓山洞雲院"が久松氏と伝通院(於大の方)の菩提寺になります。
参拝を終えて

残念ながら本堂が焼失してしまい、寺院を取り巻く雰囲気は一変してしまっています。
本堂が燃えている中、"大黒天立像"は搬出されたそうで、今でも三河七福神巡りの札所として納経をおこなっているそうです。時間はかかるかもしれませんが、本堂を再建して、往年の雰囲気を取り戻してほしいと思います。