第二章:松平家初代「松平親氏」

親氏君取諸郷斬の事

 親氏君つらつら世の有様を見給ふに、今四海一統擾乱す。此時に当って、郷民を催し、庄をも郡をも切取らずんば、何の時か一所懸命の地をも得べき。然れども人数なくしては、一身の功立がたし。所詮郷民をなつけ親しみ、手を広くして郡を取、国をも得べきものぞと、志を発し給ひ、先近国隣里富豪のものども、或は名ある武士浪人の子孫一族、或は一族親戚の広き庄官里正等が男女の子どもは、悉く養子養女とし、三州一国はいふに及ばず、隣国までもさりぬべき武士か、富豪の庄官強族を撰み聟となし、養女に配せ、養子には婦をむかえ、或は烏帽子児となし、益親みを深くし、交ざりを厚くし、其上貧民を救い、饑者を賑やはし給ふ事数限りなし。
 親氏君かくに仁慈を施し給ふ事は、あながち英雄の人心を服しめんとの計略智術にあらず、天姓仁徳ふかくおはしければ一国の中其恩義に感服し、仏か神かとかしこみけり。酒井五郎左衛門も松平太郎左衛門も、両人とも近国に希なる富豪なりしに、親氏君は松平・酒井両家督を襲給へば、家財豊饒、近郷肩をならぶる者なし。徳孤ならず必隣ある理り、親氏君とりどり仁慈をほどこし給ふを開て、縁を尋ね、伝を求めて、親しみなつき来る者数をしらず。
 元弘・建武この方は、世上一日も穏ならず、列して永享十一年より嘉吉・文安・宝徳・享徳・康正・長禄・寛正・文正まで、都て廿八年の間は四夷八蛮一統に擾乱して、つよきものは弱を倒し、衆きものは寡を苦しめ、臣は君を弑し、属吏に官長を逐ひ、郷民は一揆を企て、領主の土地を侵奪はんとす。親氏君は一族縁者はいふ迄もなし、兼々親み馴来る者、悉く招て、酒飯を饗せられ、宴半なる時に、衆客に対し仰せらるるは「某当時世上の有様を見るに、足利家の武威漸く哀へ、諸国一統に一揆蜂起し、郷村を騒動し、百姓塗炭の苦をまぬがれず。某一族親戚自国他国に多しといへ共、子孫に譲るべき寸地もなし。面々も子孫にゆづらんに、錐立る地もあらざるべし。某今民間に住といへ共、元来農商の種にもあらず、いやしくも弓馬の家に生れて箕裘の業を継べき身が、さる子細有て民間に埋もれたり。姓民をあらはさば、誰人にか劣るべき。生は死の墓、誰か百年の齢を期すべき。たとひ千歳の寿をたもつとも、民間に年月を送り、草木と共に終には朽果んこそ口おしけれ。武名を後世に残さば、寿齢の長短は論ずるにたらず。いざや一合戦して、近郷近村を切取て、一族一門へ配分し、追々手をひろげ、三州一円押領し、其後は機会に乗じ、隣国までも手を懸んと思ふはいかに。」と仰ける。
 兼て恩義に感ずるもの共なれば「此仰こそ然るべけれ、我々も随分御下知に応じ、忠勤せん」と返答す。やがて日時を定め、人数を召ければ、一族親類はいふまでもなし、恩になずき義に服する者共馳集れば、近村近里におしよせ攻伐て、従ふ者をば恩をほどこし、そむくものをば誅せらる。程なく武威盛になり、三州のうち岩津・竹谷・形原・御油・大給・深溝・能見・岡崎辺まで、日を追月を追て、その威風にぞなびきける。

改訂三河後風土記(上)より

 この段については、非常に抽象的な内容が書かれていて、簡単に言えば松平親氏のカリスマ性を高める為に周囲の豪族たちと比べて親氏のすばらしさを記している内容になっています。

 乱世の中、御家を大きくするためには人数が多い方がよく、周囲の豪族富豪、武家たちは、一族の子供や部下の子供などを養子養女とし、さらに政略結婚を行い一族の勢力を広げ、拡大していく過程で人心を掌握する為に領内の貧しき者達に施しをしているの対し、親氏は人々を助けるのは人心を掌握するといく作為な行為ではないとし、松平家・酒井家は両家とも豊かな一族でその両家の家督を継いでいる親氏は、周囲の者達と違い親氏の仁慈の噂を聞き、縁を求めて自ら親氏の元を尋ねてくる者が絶えないとしています。

三河国松平郷を追う

 三河国坂井郷にいた徳阿弥の元を尋ねた「松平太郎左衛門信重」の誘いに応じ、松平親氏と還俗して信重の領地である松平郷に向かったとしています。ただ、松平郷でどうした行動をしていたのかという事は記されていません。
 現在の豊田市松平町には改訂三河風土記に記されている松平親氏像と本当に同じ人の伝承なのか?と思ってしまうほどの違いがある「松平由緒書」という伝承が残っています。ただこの由緒書きには年代が記されておらず、いつ頃松平郷に親氏が訪れたのかはわかりません。
 豊田市では親氏が造営したという「本松山高月院」に残る寺伝と「松平由緒書」を参照した上で松平家の歴史構成を行って史跡案内板を設置しているようです。この案内板などを見ていると、改訂三河後風土記で推測している年代とはかなり誤差が生じていますし、松平家創成期歴史が大きく変わってくることになります。

 そして、親氏は永享十一年(1439年)から文正(1467年)までの28年間で足利幕府の武威は失墜し、近隣の乱世を招いているとし、「自身も武家の出身であり、このまま豪商(庄屋)の身分で死んでいくのは口惜しく、武名を後世に残すために近隣の村だけでなく三河国はては隣国まで押領、時には合戦をしてまで切取っていく。」と宣言し、これに賛同した者達は人数を集め親氏の元に馳せ参じ、周囲の豪族達を攻め落とて勢力を広げていったとし、この親氏の武威が岩津・竹谷・形原・御油・大給・深溝・能見・岡崎といった場所まで広まり、親氏に従ったとしています。

 前章で「徳阿弥」が父「長阿弥」と共に三河国に入国したとされているのが応永年間(1394ー1428年)であることは間違いなしと改訂三河後風土記には記していると紹介しています。そして、この段で文正の頃(1467年)にある意味足利幕府に対する蜂起を起こす決意を固めたとしています。・・・応永年中末期に入国したとしても約40年経過している事になります。ちなみに、三河後風土記では親氏の孫であるとしている「松平信光」が生誕したのは応永十一年(1404年)前後と言われています。
 さて、この決意をした時の松平親氏は一体何歳だったのでしょうか?

 松平家初代である松平親氏のカリスマ性を高める為なんだろうと思うのですが、非常に誇張された無いようになっている様に感じます。最後に書かれている岩津・竹谷・形原・御油・大給・深溝・能見・岡崎をも親氏の領地になったみたいな記述部分は、寛政六年(1465年)に三河の豪族たちが幕府への反乱である「額田郡一揆」に対し、幕府政所執事伊勢氏の被官となっていた「松平信光」が一揆鎮圧の武功上げ論功行賞にて竹谷・形原・深溝・五井・長沢といった地を拝領している領地が大半だったりします。松平氏の勢力圏を急激に広げた信光の功績を親氏に物に振り替える事で親氏の功績を際立たせようとする筆者の作為性を感じてしまいます。

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