鳴海から大高に抜けていくには、県道50号線かまたは県道59号線(名古屋中環状線)を使用する事になるかと思います。今回は県道50号線を使用して大高駅方面に向かっていきます。名古屋市立緑小学校を超えてすぐ右手に「鳴海八幡宮」が鎮座しています。
県道50号線沿いに鳴海八幡宮への案内板がでているので、矢印に沿って路地に入っていくと鳴海八幡宮の境内が見えてきます。
鳴海八幡宮
名古屋市緑区鳴海町字前之輪二十三番地 GoogleMap
鳴海八幡宮の社殿に置かれていた由緒書きを参照すると、延喜式神名帳の愛知郡 伊副(いぶき)神社を前身とする神社であり、伊副神社が衰退した為、熱田社大宮寺が応神天皇を御祭神として平安時代末期に再興したと記されています。さらに、康平二年(1059年)創建された如意寺(創建当初は青鬼山地蔵寺)は鳴海町の小松山が旧境内であり、この場所は伊副神社の傍らとなる場所であり、別当寺を兼ねたとも書かれています。室町時代に入り、旧境内地から現在の境内地に遷座しています。
創建当初、どういった御祭神が祀られていたのか・・・。衰退した為、応神天皇を御祭神として祀り八幡宮として再建した時に、それまで祀られていた御祭神も合祀してきたのか・・・。そのあたりがよく解りません。神功皇后は八幡三神の一柱とされているので、八幡宮再建時に応神天皇と共に祀られた可能性が高いですが、瓊瓊杵尊、玉依姫命、月読尊はどうなんでしょうか。もしかしたら、伊副神社の御祭神として祀られていたのかもしれませんね。
鳴海八幡宮の参拝を終えて、更に県道50号線を南に進み、鷲津砦址の北側にある「孝養山明忠院」を目指します。この明忠院は名古屋市保育園発祥の地としても有名な寺院なんだとか。現在でも「子供の家保育園」を運営されているようです。
保育園の北側に明忠院の境内に通じる参道入口があります。車での参拝の場合はこちらから境内に向かうとよろしい様です。
孝養山明忠院
愛知県名古屋市緑区大高町鷲津五番地 GoogleMap
天正元年(1573年)、「山口海老之丞」が父母の追善孝養のために大高村の中之郷(現在の緑区中屋敷あたり)に創建したといいます。この山口海老之丞なる人物がどういった人物なのかはよくわからないのですが、一説では信長の家臣であったと伝えられている様です。その後一度は衰退しますが、山口海老之丞の末裔により再興され、この時に真言宗から曹洞宗に改宗し中興開山しています。
四国直伝弘法四番札所、知多本四国移八十六番札所、尾張四国七十九番札所
久しぶりに二宮金次郎像を見た気がします。自分が学生の頃には当たり前の様に学校に置かれていたと思うのですが、社会人になって気付くと"とんと"見なくなった感がします。
明忠院から南に進んでいくと織田信長vs今川義元の激戦区の一つである「鷲津砦」が気付かれた鷲津山にでます。ここから、鷲津砦とそのすぐ麓にある知多四国霊場の八十七番札所「鷲頭山長寿寺」に向かおうと思います。
どこまで伝わるかわかりませんが、明忠寺の山門から細い路地を南に進むと、鷲津山を登っていく市道にぶつかります。この市道に沿って山を登っていくと、右手に鷲頭砦公園あり、この公園の奥に鷲頭砦の石碑が据えられています。車を使用する場合、駐車場はまったくないので、車は後述する長寿寺に留めて徒歩で訪れたほうがよろしいかと思います。
鷲津砦
愛知県名古屋市緑区大高町鷲津山地内 GoogleMap
今川家の手中に落ちた「大高城」を包囲する為に築かれた四砦の一つになります。守将として「織田秀敏」と「飯尾定宗」「飯尾尚清」父子が任ぜられていますが、松平元康による大高城への兵糧の運び込みが成功した後、今川軍の朝比奈泰能(泰朝)に攻め込まれ、鷲頭砦は落とされています。この時、「織田秀敏」と「飯尾定宗」は討ち死に、「飯尾尚清」は何とか逃げ延びています。
「あいちを巡る生活って」では既に鷲津砦の紹介記事を公開しております。是非こちらを合わせてお読みください。
鳴海、大高を巡っていくと、やはり永禄三年(1560年)に起こった「桶狭間の戦い」を避けては通れないなというのが実感ですね。実際に桶狭間の戦いが起こった場所は、今回巡っている場所より東に位置している名古屋市と豊明市にまたがる場所になる「桶狭間」になるわけですが、織田信長としても、南から同盟関係だった水野氏との協調作戦によって鳴海、大高あたりで今川軍をなんとか押さえていた訳で、大高、鳴海の戦線を今川家に突破されれば、織田家は滅亡という非常に重要な場所であったと思います。
織田信長軍のすごさは、戦線となる場所を土木工事などにより要塞化していく事だと何かで読んだ記憶があります。鳴海城や大高城に対して構築された各砦は単独運用ではなく、それぞれが連動して動くことが可能な構造であった可能性もありますし、主戦場となった「桶狭間」にも城郭や砦は築かれていなくても、大軍が動きにくくするような工事をしていた可能性はあるのかなと思います。
そんな桶狭間の戦いを中心とした史跡紹介となる記事を随時更新中です。こちらの企画「知多半島一周全部盛り」と合わせて読んでいただければ幸いです。
鷲津砦を後に、鷲津山を下り麓にある「鷲頭山長寿寺」を目指します。こちら長寿寺はJR東海の東海道線、東海道新幹線の線路に沿って走る県道50号名古屋碧南線沿いに建っていて、電車の車窓から長寿寺を見たことがある方は実は結構多いはずです。
先にも述べていますが、長寿寺の駐車場はかなり広く用意されているので、長寿寺の納経後、鷲津砦を訪れる際、こちらの駐車場をお借りして向かうのがいいのかなと思います。
鷲頭山長寿寺
愛知県名古屋市緑区大高町字鷲津山十三番地 GoogleMap
創建は不詳ですが、元々は鷲巣山長祐寺と称していたそうですが、鷲津砦を巡る戦いの中で灰燼に帰してしまったといいます。その後、延宝八年(1680年)、尾張藩家老職「志水甲斐忠時」が藩主である徳川光友の援助を受けて再興、寺名を鷲津山長寿寺と改めています。この再興した時は黄檗宗の寺院として再興したようですが、元禄四年(1691年)に臨済宗永源寺派へと改宗しています。
知多四国霊場八十七番札所、知多西国観音二十六番札所、知多百観音一番札所
元々長寿寺は創建当初から一般の檀家を持たない寺院だったそうで、長寿寺を再興した「志水家」の菩提寺として尾張藩からの庇護を受けていた様ですが、明治時代になると非常に苦しい寺院の運営を強いられた事は想像に難くないです。
長寿寺での納経を終え、線路沿いを西に少し進むと、JR東海の大高駅に到着します。鳴海駅から大高駅まで道なりで約1.6kmと2mを切った距離になるわけですが、鳴海を少し散策してきたのもあって、短い距離ながら非常に密度の高い散策になったなというのが実感です。小回りが利くといってもバイクですので、徒歩だったらもっと見る場所があったんだろうなとは思うのですが、個人的にはこれだけ廻れれば大満足ですね。
大高駅まで来て、電車に乗らずバイクで帰る訳ですので、わざわざ駅前までくる必要は皆無なわけですが・・・。「駅の写真を撮る」まで頭が回らず時間を確認してすぐ帰路についてしまった為、駅の写真はストリートビューだったりします。
最初に述べたように、今回は「知多半島一周全部盛り」が岡崎を9:00出発し、帰還は15:00という中々タイトなスケジュールの中、どれくらい巡る事が出来るのかを確認する為にやってきた訳ですが、あまり無理しなくてもかなりの場所を巡る事が出来る事が確認できました。現在行程を組むために地図とにらめっこの毎日を過ごしています。全く地理感のない場所であり、調べれば調べる程色々な史跡などがある事がわかり、どこまでを巡っていこうかその線引きも難しいですね。


















